2008年7月30日水曜日

第五章 からす

第五章 からす 

一般的には、からすは嫌われ者です。かつては、    

    からす、なぜなくの    
    からすはやまに    
    かわいいななつのこがあるからよ        

    やまのふるすへ    
    きてみてごらん    
    まあるいめをしたいいこだよ     

    かわい、かわい、とからすはなくの    
    かわい、かわい、となくんだよ

という童謡が、そんなに嘘っぽく聞こえなかった時代もありましたが、今は、からすが七つの子が可愛いと鳴いていると言っていられるほど悠長な時代ではなくなってしまいました。都会にはからすが増え過ぎ様々な問題を引き起こしています。 

しかし、都会で増えて来ているからすは主としてハシブトガラス(Corvus macrorhynchos) という種類のもので、この一種類のからすにカラス科の鳥すべてを代表させてしまっては、からすが可哀相です。ハシブトガラスによく似た、くちばしが少しスマートなハシボソガラス(Corvus corone) という種類は、都会よりも農耕地、川原、海岸の方が好きなようです。鳴く時もハシブトのような威張ったふりをせず、頭を下げてお辞儀をするような姿勢を繰り返します。ハシブトもハシボソも夜は一定の森を群れでねぐらとします。 

日本全国のほぼ何処でも見ることのできるカケス(Garrulus glandarius)もからすの仲間です。身体全体はぶどう色で頭はゴマシオ、羽根を広げると鮮やかな青色が目立つという中々お洒落なからすです。英国ではこの鳥は Jay と呼ばれていますが、その名の通り「ジェーイ」と鳴きます。つまり、日本のカケスも英語で鳴くのです。中々やるではありませんか。また、この鳥は他の鳥の鳴き声を真似るのも上手なので、鳥の鳴き声の録音をする時などは、用心しないととんでもない似せ声をつかまされることになります。 

若狭湾と伊勢湾を結んだあたりから北の本州に広く分布しているオナガ(Cyanopica cyana)もからすです。頭は黒く、頬からのどのあたりが白、それが腹から背中にかけて少しづつ灰色になじんでゆきます。そして羽根と長い尾は青というように、見た目は美しい鳥ですが、鳴き声はギェー・グェーと誠にうるく、群れをなして移動する習性がありますので、一団が飛来すると何事かと思うほどにぎやかです。  

  かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける  中納言家持

と百人一首の歌にも詠まれているカササギ(Pica pica)もからすですが、日本では九州北部にしか棲んでいません。一歩海を越えて大陸に渡れば、日本海沿岸から大西洋沿岸、英国に至るまで続く広い地域に分布しているのに、日本海で隔てられた本州、四国、北海道には棲んでいません。一方、カケスは大陸に於てもカササギとほぼ同様の地域に分布していて、日本海を越えた本州にも北海道にも棲んでいます。非常に近い種類の鳥なのに不思議なことです。カササギは良く見ると緑色や紫色が混じっていて、中々複雑な色合いをしているのですが、一寸目には白と黒の二色の鳥に見えます。鳩よりは一まわり大型で精悍な感じの鳥です。 

からすには一般的にいって美声の持ち主はいません。かのマリア・カラスとて例外ではなく、「ベルカント・クオリティーを欠いた声」(注1)の持ち主で、「技術的に、コロラテユーラは欠陥だらけ」(注2)と言われ続けました。「もし、オルガスムが歌う事ができれば、マリア・カラスの様にうたうだろう」(注3)というような、とてつもないコメントすら残っています。しかし、彼女の舞台で役柄の人物を作り上げる才能は非凡なもので、オペラ歌手としてのマリア・カラスはとにかく立派でした。彼女ほどのドラマティックなソプラノは、これからもそうそう出て来るとは思えません。今は残されている録音からしか彼女を偲ぶことはできませんが、例えば、帝王になる前の若いカラヤンが指揮したベルリン市立歌劇場でのライヴ、「ルチア」の狂乱の場などには恐ろしいほどの凄さがあります。激して喧嘩をし、ステージを途中で放棄したり、出演予定の舞台を完全にすっぽかしたりと、とかく問題の多かった歌手で、海運王のアリストテル・オナシスとの結婚とか、それに続くオナシス夫人の座をめぐってのジャクリーヌ・ケネディとの軋轢を含め、私生活もゴシップにまみれたものでした。そんなこともあってかマリア・カラスを手放しで褒めることには抵抗があるようで、彼女に関するコメントには酷な物も少なくありません。しかし、マリア・カラスの歌は、アクメの叫び声のようだとか、「冗談めかして言うならば、彼女は肉欲の権化であった」(注4)とか音楽辞典に書かれてしまうカラスに私は同情を禁じ得ません。 


シューベルト 歌曲集「冬の旅」から第十五曲「鴉」 

シューベルトやシューマンに限らず、詩に曲をつけた歌曲には鳥が度々あらわれますので、それら全てを網羅しようとすると手に負えない作業になってしまいます。できれば歌曲の中の鳥は避けて通りたいところです。それにもかかわらず、ここで歌曲集「冬の旅」に登場してもらったのは、実は「からす」はあまり音楽の中には出て来ない鳥で、ずばり「鴉」と題した曲としてはこれしか思い当たらなかったからなのです。 

からすと言う名前からイメージする鳥は「黒い鳥」で、その色は即「不吉」を連想させます。これが、からすがあまり音楽の中に登場し得ない理由なのではないでしょうか。このシューベルトの「鴉」も暗く、そして不吉です。    

    鴉が一羽一緒に     
    町から随いて来た。     
    今日までずっと     
    頭のまわりを飛んでいる。     

    鴉よ、変わった動物よ、     
    僕を見捨てようとはしないのか?     
    やがてここで僕の身体を     
    餌食にしようと思っているのか?     

    よし、もうこれ以上さすらいの     
    この杖にすがって行くことはない。     
    鴉よ、いよいよ墓に入る時まで     
    誠実さを僕に示してくれ!               

              (注 石井不二雄訳 Claves CD 50-8008/9 解説より)

シューベルトは貧しい家庭に生まれ、貧しい生涯を送り、そして、貧しいままに世を去りました。従って、彼は財産と称するものを持ったことがありませんでした。ほんの少々でも余裕があれば、より有利な条件で曲を出版することも可能ではあったはずなのですが、シューベルトとしては、今日を生きる為の金を優先させざるを得ず、必要以上に譲歩を余儀なくされて、みすみす安い価格で名曲の数々を手放さざるを得ませんでした。当時のウィーンの通貨グルデンというのが、現在の価値でどの位のものなのかは知りませんが、「さすらい人幻想曲」を出版したカッピ・ウント・ディアベリ社が、その後四〇年間にあげた純益は、この曲一曲だけで二万七千グルデンにのぼるといわれていますが、シューベルトがこの曲の代価として受け取った印税は、わずかの二〇グルデンであったそうです。(注5)

曲の安売りにまつわる話はこれだけではありませんが、楽譜出版の全てを知り尽くした出版社と、世間知らずの芸術家との交渉では、勝負は最初から決まっていたようなものでした。常に金の無い生活を強いられていただけに、瞬間的に多少のまとまった金を手にしたような時、それを享楽の巷できれいさっぱり使い果たすことに快感を覚えたりもしたのかも知れません。彼のまわりにはそれを助けるようなボヘミアンの友人も少なくありませんでした。二〇代後半の内気な青年には、自ら進んで邪道に足を踏み入れる程の勇気も無かった反面、そのような誘惑に打ち勝つだけの自制力もありませんでした。その結果、一八二三年には公表を憚るような病魔に見舞われ、一時は頭髪を失うほどまでに病気が進行しました。一八二四年に入ってかつらが不要なところまで回復はしましたが、この病気がシューベルトをして厭世的な方向に向かわせる原因となったことは明らかです。 

歌曲集「冬の旅」は一八二七年、三〇才の時の作品で、シューベルトはその翌年にはこの世を去っています。早世の作曲家といえばモーツァルトということになっていますが、シューベルトはモーツァルトよりも更に薄命でした。一八二三年に貧困と病苦に苦しみながら歌曲集「美しい水車屋の娘」を作曲しましたが、ここではウイルヘルム・ミュラーの詩が使用されています。シューベルトは一度もミュラーと対面したことはありませんでしたが、憧れ、さすらい、孤独、憂愁、というような主題を好んで使うこの詩人に、自分の分身を見い出していました。そして、一八二七年に同じ詩人の連作詩「冬の旅」を読んだシューベルトは、絶望と共に歩む「冬の旅」の主人公に自分自身を重ねあわせ、悲痛なまでの感動を覚えたのです。頭痛と闘いながら作曲は進められ、春までに大半が完成、秋にグラーツへの旅から帰った後一気に後半の残りを作り終えました。シューベルトは自信をもって友人達に「冬の旅」を歌って聞かせましたが、集まった人達は、あまりの暗さに言葉を失い、中の一人がただ「菩提樹がいいね」と言っただけであったということです。しかし、その時シューベルトが「自分はこの全部の歌が他の何れよりも好きで、君たちも今に好きになるだろう」と言った通り、宮廷歌劇場歌手のミヒャエル・フォーグルの努力もあって、次第にこの歌曲集の真価が認められるようになって行きました。フォーグルはシューベルトより二九才も年長で、普段の付合は無かったものの、シューベルトの歌曲の良き理解者で、作曲者の死後も機会あるたびにシューベルトを歌い続けました。シューベルトが亡くなってからすでに一〇年以上過ぎた一八三九年、そして、それはフォーグル自身の死の一年前のことでしたが、最早足腰も不自由になったこの老歌手は、ミニ・シューベルティアーデを開催し、そこで「冬の旅」を絶唱しました。集まった人々は皆涙を流して聴き入ったと伝えられています。 

「冬の旅」は、失意のうちに放浪の旅に出る、孤独な青年の物語です。恋に破れた青年というだけで、その他の身分的詳細は一切語られていません。それ故に、主人公の憂うつ、苦悩、諦観が、物語の枠を越えて、聴く人の中にある潜在的な同種の感情と同化し、深い感動を呼び起こします。 

歌曲集が終盤に向かうあたりで歌われる「鴉」では、やがて自分をついばむかも知れないからすに、「私を見捨てないのはお前だけだ。お前の意図が何であれ、構いはしない。最後まで、ずっと随いてきておくれ」と語りかけずにはいられない青年の孤独、そして諦念が歌われています。ここでの、「鴉よ、風変わりな動物よ(Krahe, wunderliches Tier)」と言う呼びかけは、最終曲では、からすではなく、乞食に向かって発せられます。「風変わりな老人よ(Wunderlicher Alter)、私はあなたと一緒に旅する事になるのだろうか。あなたは、私の歌に合わせて、手回し楽器(ライアー)を回し続けてくれるのだろうか」。 

相寄る魂を求める孤独な心の叫びは、孤独である事を余儀なくされている現代人の心に深くしみ入り、共感を呼びおこします。 



ロッシーニ 歌劇「泥棒かささぎ」(La gazza ladra)序曲 

カササギは英国ではマグパイ(Magpie)と呼ばれ、古くから縁起の悪い鳥とされていて、面白い迷信も受け継がれてきています。マグパイに出会った時、その鳥が一羽だけしかいなかった場合には見た人に悲しみがもたらされると言います。不幸にして一羽しか見ることが出来なかった場合、もたらされるはずの悲しみから逃れるためには、先ず、胸に十字を切ってから、帽子を取って鳥の方に向け、帽子を被っていない時は右肩越しに三度唾を吐いてから、「悪魔、悪魔、お前なんか知らないよ」と唱えると良いとされています。イギリスの悪魔が英語しか分からないと、日本語で言っても通じないので、このおまじないは、英語では Devil, Devil, I defy thee と言うことを明記しておきましょう。ただし、路上で肩越しに唾を吐いて警察のお世話になっても、それから逃れるおまじないは私は知りません。 

カササギの学名は PICA PICA です。その名の通り、この鳥はピカピカ光るものがお好きなようです。ロッシーニの歌劇「泥棒かささぎ」も、かささぎが銀の食器をくわえて自分の巣に運んだり、少女の手から銀貨を盗んでいったりという話をもとに作られた喜歌劇ですが、昨今、歌劇全体が上演されたという話しはほとんど耳にしません。序曲だけは今でも演奏される機会は少なくないようです。










(注1ー4)The Concise Baker's Biographical Dictionary of Musicians,
      Callas, Maria (著者訳)
(注5)属 啓成著「シューベルトの生涯と芸術」 千代田書房

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