第三章 ナイチンゲール (夜鳴きうぐいす)
鳴き声の美しい鳥の筆頭は、やはりナイチンゲールということになるのでしょうか。私もイギリスに滞在中、春先、フルートかピッコロの音色に似た声でふるえるように鳴く、ナイチンゲールの声量豊かな囀りを聞いて、楽しい気分にさせられたものです。北アフリカからヨーロッパ大陸の比較的北の方まで、更に中央アジアから中東の一部に至る地域に分布していて、時期的にずれはあるものの、この鳥に接することのできる範囲はかなり広いのですが、残念ながら日本はこの範囲に含まれていません。日本にはナイチンゲールはいないのです。
ナイチンゲール(Erithacus megarhynchos) はツグミ類ヒタキ科の鳥で仲間にはコマドリ(Erithacus akahige)やノゴマ(Erithacus calliope)等々、歌の名手が揃っています。ナイチンゲールは地味な茶色の小さな鳥で、高い木の上よりは薮や茂みの方を好むので、姿を見る機会よりは声を聞く機会の方がずっと多いという点では日本のウグイスによく似ています。しかし、ナイチンゲールに「夜鳴きうぐいす」という呼び名を与えるのはいかがなものでしょうか。山科芳麿著、世界鳥類和名辞典-大学書林-によれば、ナイチンゲールの和名はサヨナキドリで、うぐいすではありません。おそらく最初に翻訳されたアンデルセン童話のナイチンゲールが「夜鳴きうぐいす」と訳されてしまったために、その後は、オスカー・ワイルドのナイチンゲールも、音楽のタイトルのナイチンゲールも、すべて夜鳴きうぐいすになってしまったものと思われます。ナイチンゲールにごく近い種類に、英語名が「スラッシ・ナイチンゲール」という鳥がいて鳴き方もよく似ています。この鳥の和名はヨナキツグミなので、ナイチンゲールが「夜鳴きつぐみ」と訳されていたのならば、それは必ずしも間違いではなかったと言えるのですが。それにしても「サヨナキドリ」と言う和名は、美しい響きのすばらしい名前です。
ナイチンゲールは夜でも鳴くことがあります。夜しか鳴かないのではなくて、夜でも鳴くことがあるという言い方の方が適切です。ただ、時折りとはいえ、闇をはばかることなく立派な声量の鳴き声を響かせるとなると、それだけで夜鳴き鳥と呼ぶことに異論を挟めなくなります。夜鳴く猛禽ヨタカですら、もう少し遠慮しながら鳴いているように聞こえます。
ところで、ナイチンゲールの仲間のコマドリの学名は Erithacus akahige ですが、日本にはコマドリによく似たアカヒゲという小鳥がいます。面白いことにその学名は Erithacus komadori です。コマドリが akahige で、アカヒゲが komadori になってしまったのは、日本語名を学名であるラテン語に翻訳し登録した際に、日本語名と翻訳されたラテン語名とが入れ違いになったまま登録されてしまったという単純なミスによるもので、日本語が読める日本人には誠に紛らわしく、かつ嘆かわしい事でもありますが、世界的に見ればこれはこれで間違いではなく、正しい学名として通用しているのです。
ストラヴィンスキー 交響詩「ナイチンゲールの歌」
ストラヴィンスキーは一九一四年、三二才の時に、アンデルセンの童話にもとづくオペラ「Le Chant du Rossignol・ナイチンゲールの歌」を発表しました。作曲を始めたのは一九〇九年といわれておりますので、それまでに立て続けに発表し世界的にセンセーションを巻き起こした「火の鳥」「ペトルーシュカ」と、賛否両論の火だねとなった「春の祭典」の三つのバレエ音楽は、すべてこの「ナイチンゲール」作曲中に平行して作曲、発表されたものということになります。オペラは完成と同時に、ピエール・モントーの指揮でパリ・オペラ座で初演されましたが、三つのバレエ曲の前には影が薄くあまり評判にはなりませんでした。三年後にストラヴィンスキーはこのオペラの音楽に手を加え、演奏会用の交響詩として再発表しました。これが今聴くことの出来る「ナイチンゲールの歌」です。
交響詩「ナイチンゲールの歌」は、(1)中国皇帝の王宮広間、(2)二羽のナイチンゲール、(3)病床の皇帝、の三つの部分から成り立っています。「皇帝は美しい声で鳴くナイチンゲールをこよなく愛していましたが、日本から本物よりも良く鳴く「からくりナイチンゲール」が持ち込まれるや、本物のナイチンゲールを追放の刑に処してしまいます。しかし、死の迫った皇帝を救ったのは追放された本物のナイチンゲールで、その心のこもった美しい鳴き声には死神すら心を奪われ皇帝から離れて行った」という物語に添った構成になっています。大きな編成のオーケストラで演奏されますが、当然の事ながらフルートが大活躍することは言うまでもありません。
ここには、後のテクノロジー王国日本の片鱗が伺えます。それにしても、日本の技術者は、日本にいないナイチンゲールの鳴き声をどのように真似て機械仕掛けのナイチンゲールを作ったのでしょうか。おそらく、アンデルセンは、デンマークと同じように中国にも日本にもナイチンゲールがいると思っていたに違いありません。
ストラヴィンスキーを語るとき、もう一つの「鳥」の曲、「火の鳥」を取り上げないわけにはいきません。この「火の鳥」こそが、天才ストラヴィンスキーの名前を広く世に知らしめた最初の曲であったからです。
ストラヴィンスキーは、一八八二年にロシアのサンクト・ペテルブルグに近いオラニエンバウムに生まれ、一九七一年にアメリカのニューヨークで亡くなりました。父親がオペラ歌手であったこともあって、音楽的に恵まれた環境の中で育ったとはいえ、生涯に一度も、音楽院に入ったことも、学校で音楽教育を受けたこともありませんでした。従って音楽関係の学位も持っていませんでした。しかし、ストラヴィンスキーが二〇世紀を代表する作曲界の巨星の一つであったことに異論を唱える人は居ないでしょう。ストラヴィンスキーは、サンクト・ペテルブルグ大学に入学し、二年ほど法律を学びましたが、その時、同じクラスにリムスキー=コルサコフの子息ウラディミールがいて二人はいい友達でした。ストラヴィンスキーは、サンクト・ペテルブルグ大学を卒業することなくドイツに行き、そこで、ハイデルベルグ大学の学生であった、リムスキー=コルサコフのもう一人の息子アンドリューとも親しく交際するようになりました。もちろんウラディミールの紹介があってのことであったものと思われます。そして、ストラヴィンスキーの音楽に対する関心が並々ならぬものであることを知ったアンドリューは、彼を父親に紹介しました。弱冠二〇才のストラヴィンスキーは、早速サンクト・ペテルブルグのリムスキー=コルサコフの私邸を訪問し、リムスキー=コルサコフと対面しました。ストラヴィンスキーは好感をもって迎えられ、リムスキー=コルサコフとストラヴィンスキーの師弟関係がスタートすることになります。リムスキー=コルサコフはストラヴィンスキーの非凡な才能を認め、無償で彼にオーケストレーションの技法を教えました。ラッキーであったのはストラヴィンスキーだけではありません。ストラヴィンスキーがリムスキー=コルサコフからオーケストレーションの技法を学ぶことができたのは、二十世紀の音楽界にとっても誠にラッキーなことでした。ストラヴィンスキーのリズムの不規則性はロシアの民族音楽のリズムの流れを引くもので、それまで、四分の五拍子とか、四分の七拍子というロシアの民族音楽特有の拍子は、西側の作曲家の作品にはほとんど現われたことのないパターンでした。ストラヴィンスキーのリズム感覚は、ロシアのリムスキー=コルサコフの下で学んだからこそ大胆に発展させることができたのです。一方、そのリズムを誘導するロシア的な語り口、輝かしいソノリティーを生みだす楽器の構成は、リムスキー=コルサコフの管弦楽にはっきりと認められるものです。二十世紀を代表するストラヴィンスキーの音楽、特に初期の作品には、リムスキー=コルサコフの影響が色濃く現われていますが、師弟をつなぐ絆はまさに二人が共有したロシアの民族音楽でした。一九〇八年七月、リムスキー=コルサコフは、そのすぐ後に、ストラヴィンスキーがディアギレフの下で手中にする圧倒的な大成功を知ることなく世を去りました。
ストラヴィンスキーを一躍世界の寵児に押し上げた作品が、バレエ音楽「火の鳥」です。一九〇九年、セルゲイ・ディアギレフは、自分が組織したばかりのロシア・バレエ団が、翌年のパリでの旗揚げ公演で発表する計画の新作バレエ「火の鳥」の音楽の作曲を、弱冠二七才のストラヴィンスキーに委嘱しました。ディアギレフは「スケルツォ・ファンタスティーク」というストラヴィンスキーの初期の作品から、敏感にこの若い作曲家の可能性を嗅ぎ付け、試験的にショパンの「レ・シルフィード」の編曲を依頼したりして、来るべき日に備えていたようではありますが、それでも、「火の鳥」の作曲を最初からストラヴィンスキーに任せたわけではありませんでした。ディアギレフは、はじめ音楽の作曲をアナトール・リャードフに依頼しましたが、それが遅々として捗らないのに業を煮やし、リャードフの了解のもとに、その依頼先をストラヴィンスキーに変更したのです。計画のおくれを取り戻すために、厳しい日限が指定された委嘱でしたが、ストラヴィンスキーは迷うことなくそれを引き受けました。自分の能力すらはっきりとは分かっていなかったからこそできた決断であったのかも知れません。しかし若いストラヴィンスキーにとっては、そんな心配よりも、高名な興業主が組織した舞踏団の、パリ旗揚げ公演という重要なイヴェントに関わることができるという、千載一遇のチャンスの到来を前に興奮の方がはるかに大きかったことは想像に難くありません。
一九一〇年六月二五日、予定通り「火の鳥」はディアギレフの率いるバレエ団によりパリで初演されました。ミッシェル・フォーキンが振り付け、背景や衣装にはバクストとかゴローヴィンが名前をつらね、ニジンスキー、カルザヴィナ等の一流舞踏家が踊るという、万全の体勢で望んだ「火の鳥」の初演は大成功をおさめました。中でも、ディアギレフが予言していた通り、ストラヴィンスキーの音楽は圧倒的な好評をもって受け入れられ、一夜にして世界は非凡な新作曲家の登場を知ることになりました。ドビュッシーは『これは完璧な作品ではない。にもかかわらず、ある側面からみれば非常に見事である。というのは、ここでは音楽が舞踏の従順な召し使いになっていないからである。そして時折、全く風変わりなリズムの結合が聞かれる。』(注1)とコメントしています。
おとぎ話の火の鳥は、半身は鳥、半身は女という創造物ですが、ここでも話は、魔法の呪縛に苦しむ王女やその家来を王子が助け出すというだけのもので、王子が、一度は捕獲したものの慈悲心から逃がしてやった火の鳥の支援を得て魔王との戦いに勝ち、その結果、魔法の力で石や妖怪に変えられていた者たちが、全て元の人間に戻るという筋書きです。音楽は、火の鳥の登場、王子の登場、王子による火の鳥の捕獲、火の鳥の嘆願、解放、王子と王女達のダンス、魔王の怒り、戦略的子守歌、魔王の魂の宿る巨大な卵の破壊、呪縛からの解放、王子と王女の結婚等々の場面にあわせて作られていて、火の鳥のテーマはその時々の状況によりいろいろな形で曲の中に現われます。
ストラヴィンスキーは、この後、同じくディアギレフのバレエ団のために、立て続けに「ペトルーシュカ」と「春の祭典」を作曲し、彗星の如く現われた新進作曲家の名声は不動のものとなりました。しかし、この後、彼の作風は少しずつ変化して行きます。ストラヴィンスキーは、三つのバレエ音楽をもってストラヴィンスキーと信じている彼の聴衆を置いたまま、どんどん新しい方向に進んで行ってしまいます。一九一九年には、初演の翌年彼自身が演奏会用にまとめた「火の鳥」組曲を、その時点で彼が最も適切であると信じる形に改編してしまいました。ここでは、オリジナル曲のきらびやかさが削られ、音楽的効率を重視した贅肉落としが実行されています。更に一九四五年には、著作権の問題もあって再度改作がほどこされ、現在四五年版と呼ばれている組曲「火の鳥」も残されました。この最後の四五年版になりますと、オリジナル曲とはかなり趣の違う、新古典主義的「火の鳥」に変身してしまっています。現在CDなどで、一九一〇年のオリジナル版に加え、演奏会用の組曲として、一九一一年版、一九一九年版、そして一九四五年の版というようないろいろな版の「火の鳥」が聴けますので、それらを聴き比べ、ストラヴィンスキーの作風の変化をたどって見るのも面白いと思います。
第二次大戦終結後、シェーンベルクが主導する一二音派の思想を信奉する若い作曲家や批評家によって、ストラヴィンスキーの新古典主義が批判の対象になりましたが、その攻撃の最先鋒を務めた一人がピエール・ブーレーズでした。ブーレーズ自身はストラヴィンスキー研究の第一人者で、一九五三年に発表された「ストラヴィンスキー・ドミュール」と言う彼の論文は、単にストラヴィンスキーの作品のみならず、現代音楽の研究者、そして音楽理論や音楽美学の研究者にとって必読書と言われる程の重要な論文として認められています。また、ブーレーズの指揮で録音されたストラヴィンスキーの音楽は、どれもが大変素晴らしい出来栄えのもので、ブーレーズがストラヴィンスキーの優れた理解者であることを疑う余地はありません。
そのブーレーズ達から、大戦後「和声と旋律を問わず、あらゆる領域で硬化症に陥っている」との厳しい批判を受けたストラヴィンスキーでしたが、そのストラヴィンスキーの対応は見事でした。彼は積極的に一二音の音楽、特にウェーベルンの作品を調査し、その長所を認識してからは自ら一二音音楽の習作も始めました。喜寿を目前にした、そしてすでに世界最高の現存作曲家という評価も得ていたストラヴィンスキーが、自分の目指す方向とは全く違う流れの音楽の正否を、自分からその中に歩み入って確認する努力を惜しまなかったのです。そして一九五八年には全部が一二音で書かれた作品「トレニ」を作曲発表し、それが一時の気まぐれでないことを、ピアノとオーケストラのための「ムーヴメンツ」「説教、説話および祈り」「オルダス・ハックスリーの思い出のための変奏曲」「レクイエム・カンティクレス」等々の作品を次々と発表して立証しました。シンパサイザーは、ストラヴィンスキーが一二音派からの非難に屈して敵の軍門に下ったと考え、失望の色を隠しませんでした。しかしその動機が何であれ、事実としてストラヴィンスキーが示したことは、たとえ一二音技法を使おうとも、ストラヴィンスキーの音楽はストラヴィンスキーの音楽以外のなにものでもないということでした。結果的に、彼は一二音音楽の理も認め、一二音でも彼自身の音楽が作れることを示し、彼がそれまで一二音に手を染めなかったのは彼が怠惰であったからではなく、一二音以外の言葉でも充分に彼の意図が表現できたからである事を立証してみせたのでした。いずれにせよ、健康で長生きしたストラヴィンスキーは生涯に一〇〇をこえる作品を残しましたが、一二音音楽はそのごく一部にすぎません。また個人的には一二音派の作曲家達と親交を持ったこともありませんでした。ロスアンジェルスに住んでいたころには、すぐ近くにシェーンベルクも住んでいましたが、そして二人はお互いに面識もあったのですが、行き来は全くなかったと言うことです。
話はだいぶ横道にそれてしまいましたが、ストラヴィンスキーのごく初期の作品であるバレエ音楽「火の鳥」には、当然の事ながら、リムスキー=コルサコフの影響が色濃く現われています。作曲にあたってはオペラ「金鶏」を参考にしていて、ロシア国民楽派の伝統を引き継ぐ作品となっています。このリムスキー=コルサコフのオペラ「金鶏」については、次の「にわとり」の章で取り上げたいと思います。
レスピーギ ローマの松 から 「ジャニコロの松」
レスピーギは大変な新らし物好きであったようです。彼は「ローマの松」の第三曲目「ジャニコロの松」でナイチンゲールの鳴き声を取り入れていますが、その方法は鳴き声を楽器をもって再現するのではなく、何と電気的に録音されたナイチンゲールの声をオーケストラと一緒に鳴らすと言う、当たり前の作曲家では思いもつかないような方法によるものでした。しかし、マイクロフォンを使った電気吹き込みによりそれまでのラッパ吹き込みより良い音で録音できるようになったとはいえ、この曲が作られた時代(一九二四年)の録音は、今日の水準から考えたらお話にならないような粗末な音で、当時この試みが成功したとは考えにくいことです。しかし、現在発売されている「ローマの松」のCDには、レスピーギの指定通り、録音されたナイチンゲールの鳴き声が使用されている物が多く、この曲用に録音された「鳴き声テープ」も有名な楽譜出版社から発売されているそうです。今では演奏会でも原則的にはレスピーギの指定通り、オーケストラの演奏にスピーカーからの再生音を重ね合わせる方法がとられています。録音された鳴き声の代わりに水笛等が使われることもない訳ではありませんが、ナイチンゲールの鳴き声がきこえてくるあたりは、オーケストラもかなりの音量で鳴っている部分なので、音量が自由にコントロールできるアンプとスピーカーによるシステムを使用する方が、狙った効果を出しやすいことだけは間違いありません。
レスピーギ 組曲「鳥」から 第四曲「ナイチンゲール」
当時の技術では、本物の鳴き声の録音を使用する方法では思う通りの効果が得られなかったからか、「ローマの松」の後で作曲された、組曲「鳥」ではフルートにナイチンゲールの役割をまかせています。この「ナイチンゲール」には、一七世紀にイギリスで作られた作者不詳の旋律が使用されていますが、描かれた風景は、レスピーギの感性が描きだしたイタリアの田園風景に他なりません。弦楽器の森のささやきに誘われて、フルートのナイチンゲールが美しく歌っています。
ヨハン・ツェラー 「小鳥や」作品12bから「ナイチンゲールの歌」
一九世紀末にオーストリアの作曲家ヨハン・ゼラーの作った Der Vogelhandler(小鳥や)という三幕のオペレッタの中にも「ナイチンゲールの歌」というのが出て来ます。今ではこのオペレッタ自体が演奏される機会はほとんど無くなってしまったようですが、ウイリー・ボスコフスキーの指揮による全曲版CDが発売されていますので聴くことは可能です。題名の Der Vogelhandler というドイツ語は鳥を扱う全ての職業の人を指す言葉ですが、かつては、とりもちを塗った棒で小鳥を捕まえる「鳥刺し」と言う職業があって、この場合の Vogelhandler も英語で言うところの Birdcatcherですので、捕獲業者つまり「鳥刺し」と言うことになります。モーツァルトの歌劇「魔笛」に出てくるパパゲーノも鳥刺しです。
モーツァルトの音楽にも鳥の声は取り入れられています。しかし、この作曲家は自然の鳴き声をそのまま模倣するような使い方はしておらず、一度鳥の声を頭の中に取り込み、咀嚼してから、音譜の形に表現し直しているため、どの音が鳥の声かは、言われてみないとなかなか分りません。例えば、「魔笛」の序曲の最初のアダージョがアレグロに変わった後に、単なる装飾以上の役割を負った旋回音(グルッペット)がでて来ますが、これが鳩の声ではないかと言われています。この形はパパゲーノの第一幕のアリアの最初の小節にも現われ、また、第二幕でのアリアにもやや早いテンポで倒立して現われるので、この音型はそう解釈するのが自然だと、マルセル・モレが「神モーツァルトと小鳥たちの世界」(注3)の中で言っていますが、私にはもう一つピンと来ません。
小鳥がモーツァルトの音楽を真似て囀ったという大変微笑ましいエピソードも紹介しておきたいと思います。このエピソードは、マルセル・モレが、彼が読んだ本に紹介されていたものをまた引きの形で引用しているものです。
『一七八四年のある日、ウィーンの街を歩いていた若いモーツァルトは驚いたように一軒の小鳥屋の前で足を止めた。入口の扉の上の籠の中の鳥は、モーツァルトが前月に完成したばかりのピアノ協奏曲ト長調(K四五三)のアレグレットのテーマを歌っていたのである。その鳥はむく鳥の一種であった。彼はそれを三四クロイツァーで買い、家に戻ると、金銭出納帳に金額を書き、その下に協奏曲のアレグレットの最初の五小節を書き記した・・・・・。』(注4)
さすがはモーツァルト、小鳥にまで影響を与えたとは!、と言いたいところですが、実は一八世紀のヨーロッパでは小鳥に音楽を教えるホビーが流行し、その手ほどきをする学校すらあったと言うことです。籠の中の鳥に、鳥の声に良く似た音を出すリコーダーやフルートのような楽器を使って、何度も同じメロディーを吹いて聞かせると、次第にそのメロディーを習得し、自分の声でそれを真似るようになるのだそうです。オウムやキュウカンチョウが上手に人の言葉を真似ることは良く知られていますが、鳥の中には他の鳥の鳴き声を真似るのが上手な鳥もいます。そんなこことからも分かるように、鳥は音楽を習得する能力も持っているものと考えて間違いはないでしょう。当時は、小鳥が真似しやすいような音階を使った音楽が特別に作曲されたりもしていたようです。
(注1) ショーンバーグ「大作曲家の生涯」下141ページ、共同通信社
(注2) LPレコードSMSー2324「春の祭典」ジャケット解説(大宮真琴著)
(注3、 4)マルセル・モレ著・石井宏訳「神モーツァルトと小鳥たちの世界」東京書
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