第四章 にわとり
世界中どこでも、人間のいるところには必ずにわとりもいるので、音楽の中にもにわとりは頻繁に登場します。ざっとあげても、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の第二曲「雌鶏と雄鶏の群れ」、ハイドンの交響曲第八三番ト短調「雌鶏」、レスピーギの組曲「鳥」の第三曲「雌鶏」、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の第五曲「殻をつけた雛の踊り」、リムスキー=コルサコフの「金鶏」、等々が出て来ます。サン=サーンスの「死の舞踏」とかムソルグスキーの「はげ山の一夜」のような曲では、魑魅魍魎は夜明けの鐘とともに退散しますが、そんな時にはたぶんにわとりも鳴いているのでしょう。
ニワトリ(Gallus gallus var. domesticus)は人に飼い慣らされ作り変えられて来た家禽類で、同じ「鳥」でも野生の鳥とは趣を異にします。鳥類図鑑には原種の野鶏のページはありますが、「ニワトリ」のページはありません。以下、「鶏の事典」(注1)を参照しつつ、鶏のプロファイルを紹介してみたいと思います。
人がニワトリを家畜化した時期は正確には分かりませんが、少なくとも五千年以上昔であったと考えられています。そのルーツは、南アジアの森林に棲んでいるキジの一種であるセキショクヤケイ(Gallus GALLUS ヤブニワトリ)やその他のヤケイ属の鳥で、それらが長い年月をかけて飼い慣らされて来たものです。牛や馬の場合は原種となった種がこの世から全く消滅してしまっていますが、ニワトリの場合だけは現在でも祖先である野鶏が原種のまま四種類残っていて、遺伝や進化の歴史をたどる上で貴重な存在となっています。
ニワトリが広く世界に伝播したのは、闘鶏に対する人々の興味のためであったとする説があります。近代ボクシングに採用されている、ヘビー、ライト、バンタム、と言うような重量制やその呼称は、もとはと言えば、それ以前にイギリスで大成された闘鶏のルールの中で使われていたものでした。アンコールワットの壁面には闘鶏の壁画もあります。日本でも、平安時代には鶏合せと呼ばれた闘鶏が、宮中をはじめとして庶民の間でも愛好され、三月三日の年中行事にまでなっていたと言うことです。プエルトリコでは今でも闘鶏が公認されていて、国民娯楽として人気第一位の座を維持し続けているそうです。このように見てくると、それが本来の目的であったか否かは別に、野鶏馴化の歴史と闘鶏とは無関係では無かったと言う説には説得力があります。
欧米には「ヨコハマ」と呼ばれる一群のニワトリがいます。ヨコハマの波止場から、船に乘って、異人さんに連れられて行ってしまった「尾長鶏」、正確にはその子孫達です。日本には日本人の感性が作りだした「日本鶏」と言う鑑賞用のニワトリがいます。江戸末期までに日本に渡来してきたニワトリと、それらを用いて新しく作りだしたニワトリで、現在三十種近くが残っています。このうち十六種は国の天然記念物に、別に、尾長鶏が特別天然記念物に指定されています。土佐の尾長鶏は世界的に有名で、その尾羽は八メートルにも達するものもあり、育種技術の驚異とまで言われています。一方では尾の全く無いウズラチャボと言うニワトリもいます。イギリスをはじめ、世界各国でジャパニーズ・バンタムと呼ばれて愛されている各種のチャボも日本を代表する鑑賞鶏です。ニワトリの鳴き声は、闇を押し開く太陽を招くものとして古来より神聖視され、また死者を蘇生させる霊力を持つものと言う伝承が世界各地に存在するところからも分かる通り、ニワトリの大きな特徴はその鳴き声にありました。しかし鳴き声を変えて、より美しく鳴くニワトリを作ろうと努力したのは日本人だけでした。美声を楽しむことを目的に作られたニワトリがいると言うことは、世界の人々がひとしく驚くところです。ニワトリの鳴き比べコンテストが広くを行なわれている国は、恐らく日本以外には無いのではないでしょうか。鳴き声の美しさ故に天然記念物に指定されている長鳴鶏としては、東天紅(とうてんこう)、声良(こえよし)、蜀鶏(とうまる)と言うようなニワトリがいます。
鶏卵は物価の優等生と言われているほど、日本の鶏卵産業は高い水準にありますが、その内容を見てみると、飼育されている鶏種は、アメリカで育種された『一代雑種が輸入されてわが国で原種として飼育され、さらにこの原種の二系統を交配して四元交配のニワトリが作られ、採卵用に利用されている・・上に・・養鶏につかわれる濃厚飼料は、原料の八〇パーセントまでが外国からの輸入品で占められていて、譬えていえば、機械も原料も輸入に依存した加工業のようなもの』(注2)なのだそうです。
肉用の鶏ではブロイラーの名前をよく聞きますが、本来は、ブロイル(broil)つまり丸焼き用に適した一・八キロ未満の小型の鶏を意味する言葉で、その他にフライ(fry)に適した中型のフライヤー、ロースト(roast)に適した大型廃鶏のロースターがありましたが、現在ではブロイラーとフライヤーの区別は行なわれておらず、両方ともブロイラーと呼ばれています。第二次世界大戦中に、深刻な食糧不足を補うために開発された早熟な肉用種で、生産効率は高いのですが、その分味が落ちるのは致し方ないところでしょう。
ところで、鳥の声を人の言葉におきかえる「ききなし」は日本ばかりでなく、世界各地でその国の言葉によるききなしが行なわれています。ニワトリは、日本では「コケコッコー」ですが、英語圏では"Cockadoo-dledoo"とか"Cooks Quickly do"と鳴きます。面白いのはニワトリの親戚筋でもあるウズラで、英国では"Wet my lips" と鳴くのだそうです。日本でのウズラのききなしは、古くは「嘩嘩快」(カカカイ)でしたが、俳優の伴淳三郎が「アジャパー」と言う言葉を流行らせてからは、この方が似ていると言うことで、「アジャパー」に定着した時期があったと言います。(注。NHKーTV「日本人の質問」一九九七年九月二〇日)日本には鳥ばかりでなく、虫の声のききなしもあります。私の母はコオロギは「かささせすそさせ寒さが来るぞ」と鳴いているのだと言っていました。角田忠信理論によれば、欧米人の脳は虫の声は単なる雑音として処理してしまうそうですので、虫の音のききなしはおそらく欧米には無いのでしょう。
サン=サーンス 「動物の謝肉祭」から「雌鶏と雄鶏の群れ」
「動物の謝肉祭」の話は、第一章「スワン」のところで既にでてきていますが、その時には、作曲者のサン=サーンス自身については何も触れておりませんでした。カミュ・サン=サーンスは一八三五年に生まれ、一九二一年に亡くなったフランスの作曲家です。作曲家として名を残したので作曲家と言うことになりますが、何になっていてもその分野で名を残したであろうと考えられるような、きわめて高い知能指数と恐るべき記憶力の持ち主であったと言うことです。しかし、一〇才の時のデビュー・ピアノ・リサイタルで、アンコールに応えて「ベートーヴェンの全三二曲のどのソナタでも暗譜で弾きます」と申し出たと言うエピソードからは、天才の鼻持ちならぬ側面も伺えます。フランス天文学会の会員であったと同時に、オカルトにも興味を持っていました。そして、晩年には「諸問題と神秘」と言う哲学書をも物したりしました。敵も少なくなく、さまざまな不幸にも見舞われて、その晩年はけっして明るいものではありませんでした。
サン=サーンスの音楽は、少なくともフランスでは、例えば国民音楽協会を創立して新進音楽家の育成擁護に努めたように、フランス音楽界に尽くしたと言う功績もあって高い評価を受けていますが、フランス以外の地域ではその評価はまちまちです。この点に関してショーンバーグは、『サン=サーンスは再評価さるべきだろう。車輪を一回転させるだけで、彼の完全な技量、軽やかだがエレガントで、明確な輪郭を持つ音楽思想がリバイバルに値することが判明するだろう。問題は、サン=サーンスが、最悪の作品「サムソンとデリラ」「白鳥」「死の舞踏」によって最もよく知られ、「ピアノ、トランペット、弦楽器のための七重奏曲」「ヴァイオリン・ソナタ・ニ短調」「ピアノ五重奏曲変ロ長調」などが演奏の機会に恵まれていないことである。』(注.3)と述べています。「白鳥」を最悪の作品の一つに加えることには抵抗がありますが、おおむね納得できるコメントです。音楽は演奏されなければ広く知られることはありません。その意味で、演奏家がこれらの「良い曲」を取り上げ、一般聴衆の前に披露してくれることを切に希望いたします。CDの普及以来、この種の希望は急速に満たされ始めていることも事実で、CD時代になってから聴く機会に恵まれた、サン=サーンス最晩年のピアノと管楽器のための三つのソナタなどは、今では最上位にランクされる「私の大好き音楽」になっています。
「白鳥」すら最悪の作品ときめ付けられてしまえば、「雌鶏と雄鶏の群れ」は出る幕が無くなってしまいますが、前にも触れた通り、「動物の謝肉祭」は超一流の音楽ではないにしても、楽しい音楽であることはまぎれもない事実です。ある音楽が長い間多くの人に聴かれているのはそれなりの理由があってのことです。自分の「好きな」音楽は自分が決めればいいことで、誰が何と言ったかと言うようなことはあまり気にする必要はないのではないでしょうか。
ハイドン 交響曲第八三番ト短調「雌鶏」
この曲は、パリ交響曲と呼ばれている一一曲の交響曲の中の一曲で、「雌鶏」と名前はついていますが、実はにわとりとは全く関係がありません。このニックネームは、最初にこの曲を聴いた聴衆の一人が、第一楽章の第二主題がク、、、とオーボエで演奏されるのを聴いて、それが雌鶏の鳴き声に似ているといってつけたもので、残念ながら、明るく力強いこの交響曲の全体像からはほど遠い題名と言わざるを得ません。
ハイドンはその長い生涯に、少なくとも一〇四曲の交響曲を作曲しました。もちろん交響曲の黎明期のもので、通に言わせれば、その後に輩出した大作曲家達の作品と比較すると、ハイドンの交響曲はプリミティヴで「軽い」と言うことになるのでしょうが、音楽が全て深刻なものでなければいけない理由はないし、明るく健康な響きを持った音楽の価値が低いなどと言うこともある訳がありません。むしろ、先の見えない、せち辛い、競い合うことにしか価値を見い出せないような、そんな今だからこそ、ハイドンの音楽はもっともっと尊重されてしかるべきであると私は主張したいのです。歴史的に見て、ハイドンが交響曲の生みの親であったと言う通説には同意しがたいのですが、ソナタ形式の確立をハイドンの功績としてたたえることには異存はありません。
伝記によれば、ハイドンは、勤勉にして寛大、率直で正直、と言うこの種のほめ言葉が全て当てはまるような善意の人であったようです。人生の大半を貴族エステルハージ家のお抱え音楽係りとしてすごしましたが、貴族の雇用人と言う立場に不満を持ったことはありませんでした。週二回のオペラ、二回のフォーマル・コンサートの準備と演奏、作曲、後進の指導、お抱え楽士のとりまとめ等、仕事はかなりの激務であったと想像されますが、愚痴もこぼさず、忠実に職務を全うしました。人あたりも穏やかで、敵を作るようなことは性格的にできませんでした。明らかな失敗であったかつら屋の娘マリア・アンナ・ケラーとの結婚でも、彼女がとても手に負るタイプの女ではないことがわかると、さっさと自分の方から逃げ出して別居の道を選び、外で、同じ公爵のお雇い歌手のボゼルリと生活を共にすると言う方法を選びました。離婚はできませんでしたが、一八〇〇年にマリア・アンナが死ぬまで金銭上の責任はきちんとはたしていたようです。
細事にこだわることなく鷹揚に全てを受け入れると言う器量の大きさは、同業者を競争相手と言う目で見るようなことが無かった彼の姿勢にも表れています。ハイドンは、一七八一年、ウィーンに滞在中のモーツァルトと会い親交を結びましたが、その時ハイドンは、モーツァルトの父親に「モーツァルトこそ、私が会ったことのある、あるいは、会ったことは無くても名前だけは知っている全ての作曲家達の中でも最高の作曲家だ。」と語ったと言うことです。これが単なるお世辞でなかったことは、それ以後のハイドンの作品にめざましい変化が見られることからも明かです。ハイドンは彼よりも二五才近くも若い、二五才のモーツァルトに天才を認め、モーツァルトから曲の構成や新たな表現の可能性について学んだのです。モーツァルトもハイドンを尊敬し、彼に、今日ハイドン・セットとよばれる六曲の弦楽四重奏曲(一四番ー一九番)を献呈しています。ハイドンの葬式ではモーツァルトのレクイエムが演奏されました。ハイドンは一時ベートーヴェンを教えたこともあります。ベートーヴェンはどちらかと言うと扱いにくい類の生徒であったようですが、ハイドンは早々とこの若者の才能を見抜いて、「ベートーヴェンはやがてヨーロッパ最大の作曲家となる」と自らも信じ、人にもそのように話していました。また、生涯のほとんどをウィーンとその周辺ですごしたハイドンは、晩年になって二回英国訪問の機会に恵まれ比較的長期間ロンドンに滞在しましたが、そこで聴いたヘンデルのオラトリオに刺激を受け、後に自らも「天地創造」や「四季」と言うような傑作を生み出したりもしています。
ハイドンで思いだすのは、「ハイドン・モーツァルト・メタスタシオ伝」と言うタイトルの、フランスの文豪スタンダールの処女作のことです。日本で全文が訳出されたか否かはつまびらかではありませんが、私の手元には大岡昇平の訳で、ハイドンの部分だけが抜き出された、昭和二三年一月再販発行(初版昭和一六年)の「ハイドン」があります。非常に興味深いのは、これがスタンダールの処女作と言うよりは、ほとんど盗作に近いきわどいもので、事実、スタンダールは、元本であるイタリアの「ハイドン伝或ひは有名なる作曲家ジュゼッペ・ハイドンの生涯と作品に関する手紙」(Le Haydine, ovvero Lettre sulla vitae e le opere del ce'ebre maestro Giuseppe Haydn (Milano, 1812) の著者カルパーニ (Carpani) からひょうせつ剽窃の抗議を受けました。しかし著作権の存在しなかった時代の話で、しかもミラノとパリの間の言い争いではらちがあかず、カルパーニは充分な賠償は得られなかったと言うことです。更に滑稽なのは、スタンダールが、カルパーニの元本の内容を間違えて転記したことに気付かなかったイギリスの出版社が、その間違った情報をもとに、ハイドンとベートーヴェンの弦楽四重奏曲について大真面目に理論展開を試み、世の嘲笑の対象となったと言う事実です。その部分をここに紹介いたします。以下が、スタンダールがアルト(ヴィオラ)とヴィオロンチェロ(チェロ)を取り違えて転記した部分です。
『周知の様に四重奏曲は四つの楽器、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、アルト、ヴィオロンチェロによって演奏される。或る機智ある婦人がいつた。ハイドンの四重奏曲を聞くと四人の気が利いた人達の会話を聞く様な気がする。第一ヴァイオリンは中年の機智に富んだ座談の名人で話題を提供して会話を指導する。第二ヴァイオリンは第一ヴァイオリンの友人で自分を抑へ、あらゆる手段を尽して専ら友人を引立てようと努める。何か変ったことをいひ出すよりは他の人達がいつたことを賛成して会話を進行させる。アルトは学問のあるがっちりした格言好きの語手である。彼は簡潔なしかし人を打つ真理を含んだ格言で第一ヴァイオリンの議論を支持する。チェロは少しお喋りなお人好しの婦人だ。彼女は大したこともいへない癖に、しよつ中会話の仲間入りがしたくて堪らぬ。しかし彼女は会話に一種の優しさを齎らす。彼女が喋る間他の語手は一息つくことが出来るといふものだ。彼女は内々アルトの紳士に思召しがある。云々。』(注4)
カルバァニの原文には無論それぞれ正しい位置、つまりヴィオラがお喋りな女、チェロががつちりした格言家となつていますが、スタンダールが「博学な」と折紙をつけた英訳版のM・G(マアレイ)は、スタンダールのこの転記誤りに気がつかず、これを根拠に、ベートーヴェンとハイドンの四重奏の相違について、「ハイドンのチェロはお喋りの婦人に似ているけれど、ベートーヴェンのはもっと真面目だ」と言う珍説を発表しているのだそうです。(注5)
先達の著作に依存するケースの多い物書きとしては、以て銘すべきと受け止めなければならないと思っています。
ハイドンの弦楽四重奏曲には、ハ長調作品三三ー三「鳥」と、ニ長調作品六四ー五「ひばり」と言う二つの鳥の曲があります。「鳥」の場合も「ひばり」の場合も、ハイドン自身がつけた題名ではありませんが、どちらも、鳥を連想させる旋律がふんだんに含まれていて、なかなか良い名前です。「鳥」の方は、各楽章に小鳥の鳴き声を思わせる音形が出てきますが、特に、曲の冒頭にいきなり出てくる第一主題はその代表的なものです。なじみ易い旋律が軽快なテンポに乗って歌われる明るい曲です。「ひばり」の方も、第一楽章の第一主題がいかにも青空に舞いながら歌うひばりを思わせるような旋律で、気持ちが安らぎます。ゆるやかなテンポはのどかな春の日差しすら感じさせてくれます。最終楽章では、わが世の春を謳歌するかのように、ひばりは忙しげに囀っています。
交響曲であれ弦楽四重奏曲であれ、ハイドンの曲は、健康的で明るい力に満ち溢れていています。策を弄せず、背伸びせず、ゆったりと、自然体で生きたハイドンの音楽には、疲れた心を癒す不思議な力があります。さまざまなストレスに悩まされ、ノイローゼが持病となってしまった現代人に、ハイドンの音楽は、川のせせらぎや、山の緑にも似た、深い安らぎを与えてくれるはずです。
名前だけではなく、本当にひばりを描写した曲としては、イギリスのヴォーン=ウイリアムスが作曲した、「あげ雲雀」と言うタイトルの曲があります。管弦楽曲ですが、独奏ヴァイオリンが、空高く舞い上がるひばりの声を描写するために使われています。
ムソルグスキー「展覧会の絵」から第五曲 殻をつけた雛の踊り
ハイドンとは対象的に、ムソルグスキーは暗い人生を生きた人でした。もちろん時代の流れや社会的変革が人の一生を左右する大きな要素となり得ることは言うまでもありませんが、しかし、同じような境遇に置かれていても、ある人はその人生を明るく生きることができるのに、ある人はそれを暗く惨めなものにしてしまうと言うように、一人一人の生きる姿勢の違いによって、その生涯は大きく変わってしまいます。ムソルグスキーには自分で自分の人生を暗くしてしまったようなところがありました。構想した内容を、構想した通りに曲に盛り込むことができず、また折角作った作品が正当な評価を得られないことに苦しんで、次第に人から離れ、遂には酒に溺れて自らの命を縮めてしまいました。ムソルグスキーの作品は、彼の死後、彼が自分の方から離れて行った「五人組」の仲間を始めとする他の多くの人の助力を得て評価を高めて行きましたが、生きている時から、もっと積極的に、酒ではなく人の助けを受入れるような生き方はできなかったのでしょうか。四二才の誕生日の直後に亡くなってしまいましたが、そんな若さで、酒に奪われてしまうにはあまりにももったいない命であり、才能でした。ムソルグスキーは未完の大器どころか、自分自身で持て余してしまった程の才能を持って生まれた不運の天才でした。
ムソルグスキーは一八三九年にロシアの西北部に位置するプスコフ郡カレヴォ村に生まれました。家は貴族の地主で、末っ子の彼は、恵まれた環境の中で、周囲の人達の愛を一身にうけてその幼年期を過ごしました。一〇才の時にサンクト・ペテルブルグに出てそこの中学校に入学すると同時に、アントン・ゲルケについて正式にピアノの勉強を始めました。一八五二年には近衛士官学校に入学しましたが、その後もピアノは続けておりました。卒業後、ムソルグスキーは近衛連隊に見習士官として入隊しますが、彼の言う「新しい岸辺」を求める欲求が次第に抑えがたいものとなっていったのはその頃のことです。しかし、ウオッカ以上に愛していたものが音楽であったとはいえ、そしてまた彼のピアノの演奏には聴く人を納得させるものがあったとはいえ、ムソルグスキーは作曲に関しては素人同然でした。そんなムソルグスキーに最終的に作曲を生業とする道を選ばせた要因は、やはりバラキレフとの邂逅であったと考えるのが最も自然でしょう。バラキレフは、まだ音楽の規則すらよく分からな言うちから自己流で作曲を始め、ほぼ独学で音楽を習得しつつ持ち前の強固な意志を貫いて、一八五七年にグリンカが亡くなった後には自らロシア民族音楽界の指導者的地位についた人です。そんなバラキレフの存在に勇気付けられたムソルグスキーは、一八五七年、彼のもとに馳せ参じて憑かれたように音楽の勉強を始めました。バラキレフのところにはすでに陸軍将校のキュイがおり、ムソルグスキーの後に海軍将校のリムスキー=コルサコフと化学学者ボロディンが参加しました。先生格のバラキレフは独学の人、そしてその人の下に集まった四人は全員が他に職業を持つ素人でしたが、この人達が後に「ロシアの五人組」と呼ばれ、「洗練された」西ヨーロッパ型の音楽の普及をめざしていたサンクト・ペテルブルグ音楽院やモスクワ音楽院に対し、はっきりと対立姿勢を打ち出して祖国ロシアの民族音楽の伝統を守る運動を展開した人達でした。しかしこの五人組も、バラキレフの強すぎる個性と、その影響下におさまりきれないそれぞれの個性がぶつかりあい、更にムソルグスキーの自我が他の仲間との協調を拒否するに至って解体してしまいます。
ムソルグスキーの不運は、彼が正式に作曲理論を学ぶ機会に恵まれなかったことに起因しています。そのため、溢れ出る構想を音楽の形にまとめあげ、充分に表現しつくすことができませんでした。彼がいかに最善を尽くしても、彼の音楽には、理論的、技術的欠陥が点在していました。ムソルグスキーが心血を注いで作った歌劇「ボリス・ゴドノフ」に対して、友人のキュイは、ほかの理由に併記して「未熟さ」「技術的欠陥」をあげて批判していますが、後にリムスキー=コルサコフも『「私はこの作品を崇拝すると同時に憎む。オリジナリティ、力強さ、独自性、美しさは崇拝に値する。しかし和声面の欠陥と粗雑さ、音楽上の矛盾に関しては、これを憎む」』(注6)といい、自らその改訂を行なったことからも、キュイの批判が不当なものではなかったことが判ります。しかしムソルグスキーはそうは受け取りませんでした。彼は怒ります。『私は、嫉妬深くなり、頭が混乱し、怒り狂っている。ただ、私には心痛と不満があるばかりだ。キュイは、何と非礼な批評をしたのだろう。あんなことが、教養ある人間に許されていいものだろうか』(注7)これは一八七四年にムソルグスキーが友人にあてた手紙です。ムソルグスキーは裏切られたと感じました。そして完全に仲間からも孤立し、崩れるように酒に溺れて行きました。
「展覧会の絵」が生まれた頃、ムソルグスキーの生活はすでにかなり酒臭いものとなっておりました。一八七〇年、ムソルグスキーは、最後まで親交を保った少ない古い友人の一人、ロシア民族音楽の旗手でもあった評論家ウラディミール・スタソフの紹介で、画家であり建築家でもあったガルトマン(当時はハルトマンと呼ばれていました)と知り合いになりました。ガルトマンがロシアの伝統や民衆の姿を自分の芸術の中に取り込もうとしているのを知って、ムソルグスキーは音楽でロシアそのものを表現することを目指していた自分と同じ姿勢のこの芸術家に強く惹かれました。しかしガルトマンはムソルグスキーと知り合って三年後、三九才の若さで亡くなってしまいます。
一八七四年の春、この無名の芸術家の遺作展が開催されました。ガルトマンの死を悼むムソルグスキーとスタソフの二人の尽力があっての展覧会でした。悲しみのうちにこの展覧会に望み、四百点にも及んだ遺作を見てまわるうちに、ムソルグスキーは、ガルトマンと自分を結び付ける作品を残したい欲望に駆られます。そして憑かれたように一気に作曲したのがピアノの組曲「展覧会の絵」でした。表紙に「ガルトマン」と鉛筆で書かれた跡が残っているところから、最初に考えたタイトルは「展覧会の絵」ではなく「ガルトマン」であったのかも知れないと言う推測も成り立ちます。
今でこそ知らぬ人はいない位のムソルグスキーの代表作「展覧会の絵」も、トゥシュマロフ等が管弦楽用に編曲したものがロシア国内で演奏されていたとは言え、一九二二年にラヴェルの手になる管弦楽用編曲版が世に出るまでは、その存在は国際的にはほとんど知られていませんでした。実に半世紀もの間、正当な評価を受けられないまま埋もれていたと言うことになります。いろいろ理由は考えられますが、やはり作曲技法上の欠陥が最大の理由だったのではないでしょうか。と言いますのも、ラヴェルの管弦楽版が紹介された後でピアノの原典版を演奏する気運が生まれて来てからも、演奏者毎に細かなリタッチが施された「展覧会の絵」が演奏されるのが常で、厳密な意味での原点版が演奏されるようなケースは皆無と言っても良いのではないかと思える程だからです。今ではいろいろなピアニストが演奏したいろいろな「展覧会の絵」をレコードやCDで聴くことができますので、聴き比べてみるのも面白いと思います。
この組曲の第五曲目が「殻を着けた雛の踊り」で、ガルトマンの絵は「トリルビー」と言うバレーの舞台衣装のために描いたデッサンだそうです。四曲目の「ビドロ」と六曲目の「二人のユダヤ人」は重い感じの曲で、その間に明るい小曲「殻を着けた雛の踊り」が挟まれていて、コントラストが鮮やかです。
リムスキー=コルサコフ 歌劇「金鶏」
一九八九年七月にボリショイ劇場が二〇年ぶりに日本を訪れ、大掛かりな引越公演を行ないました。その時に「ボリス・ゴドノフ」とか「エフゲニー・オネーギン」と言う、いわばスタンダードのロシア歌劇に加えて、非常に珍しいオペラ、リムスキー=コルサコフの「金鶏」が上演されました。もちろん日本初演でしたが、これはボリショイ劇場においても、その前の年に、一九三二年以来、五六年振りに復活公演が実現したと言う、いわく付きのオペラでした。ソヴィエト社会主義共和国連邦の時代に長いこと上演ができなかったのは、この「金鶏」がおろかな独裁者と専制政治に対する風刺を内容とするオペラであったために体制批判に通じるものと判断され、原典のままでの上演は困難であった上に、リムスキー=コルサコフ自身が内容の部分削除を厳しく禁じていたために、修正版の上演もできなかったと言うのがその理由です。
オペラは、ドドン王と言う、少々頭の弱い国王を最高権力者にいただく架空の国の話で、文豪プーシキンの原作になるおとぎ話に基づくものです。ドドン王は「褒美に欲しいものは何でもやる」と言う約束と引き替えに、星占い師から、国に危険がせまると高らかに鳴いて警告してくれる「金の鶏」を貰い受けます。王が饗宴に明け暮れていると、ある夜、見張りの金鶏がけたたましく鳴いて敵の襲来を告げます。王は二人の王子を戦場にさしむけますが、あえなく二人とも戦死してしまいます。またまた金鶏が急を告げるので、今度は王自身が戦場に向かいます。すると、敵陣から妖婉なシェマハの女王が現われ、美しい声で歌って王を魅了します。彼女の誘惑に乗せられ、のぼせ上がったドドン王は完全に戦意を喪失し、心身ともに女王の性的魅力の奴隷と化してしまいます。どうやら二人の息子も戦死したのではなく、シェマハの女王を独り占めしようと争って、互いに刺し違えたようです。ドドン王は、シェマハの女王に「わたしを愛してくれるなら、あなたに巨大な王国を進呈しよう。全部あなたのもの、私自身も。・・・鳥の乳以外なら何でもあげる。」と約束します。そして彼女を王宮に連れて帰り王妃にすることにしますが、その婚礼の席に星占い師が褒美を取りに現われ、王に自分が欲しいのはシェマハの女王だと告げます。怒った王は王杖で星占い師を叩き伏せてしまいます。すると一天にわかにかき曇り、鋭い叫び声とともに金鶏が現われてドドン王をくちばしで突き殺してしまいます。間抜けな上に横暴な王様であったにもかかわらず、その王様が死ぬと、民衆は、喜ぶどころかただおろおろするばかり。駄目なのは国王だけではありませんでした。沈黙の後に、殺されたはずの星占い師が現われ、観客に向かって「お話はこれでおしまい。結末がどんなにいたましかろうと、心配はご無用。私と女王だけが、ここでは生きた人間だったのです。その他のものは絵そらごと。血の気のない幽霊。そしてからっぽ」(注.NHK-TV字幕より)と言う口上を述べ幕となります。
このような風刺劇を、体制の権力者が好む筈がありません。この歌劇は、リムスキー=コルサコフの最晩年、一九〇八年の作品で、ロシアが日露戦争に負けて間もない頃であったこともあって、その風刺性故に舞台にかけることができず、リムスキー=コルサコフはその初演を観ることなく翌一九〇九年に亡くなっています。
この歌劇が、一九八八年になって半世紀振りにボリショイ劇場で取り上げることができるようになったのは、何といってもペレストロイカのお陰です。それまでソ連では、特にスターリン体制の社会主義的リアリズム重視の時代には、「皇帝」と言う呼名の使用の禁止、宗教的表現の禁止、等々の制限があって、ロシアの歌劇であっても、細かいところまで丁寧に改訂したものでないと上演はできませんでした。題名でも、例えばグリンカのオペラ「イワン・スサーニン」のように、「皇帝に捧げた命」と言う原題が使えない為に、主人公の名前をそのまま使って、仮の題名としたようなものすらありました。まして、体制を批判するような内容のオペラの上演など、全く不可能であったのは言うまでもありません。しかし、ペレストロイカの浸透とともに無理な改訂は元に戻され、今では帝政ロシア時代のオペラも原典版で上演出来るようになっております。
歌劇の中では、金の鶏はマリオネット(糸あやつり人形)が演じる場合もあるそうですが、東京での公演ではバレリーナによって演じられ、華麗なそして躍動感のある金の鶏が作り出されていました。ここでの金の鶏は「キキククー」と鳴いておりました。
組曲「金鶏」は、作曲者自身がこの歌劇を演奏会用組曲にまとめたものです。
レスピーギ 組曲「鳥」から 第三曲 「雌鶏」
組曲「鳥」からは、ナイチンゲールとカッコウがそれぞれの章にすでに登場済です。ここでは、第三曲目の雌鶏について簡単にふれ、残った鳩は第六章に登場してもらうことにいたします。
この「雌鶏」の主題は、ジャン・フィリップ・ラモーの鍵盤楽器用の La Poule (雌鶏)によるもので、ラモーの原曲になじんでいるバロック・ファンも少なくないはずです。ここでは第一ヴァイオリンの雌鶏が、忙しく コッ、コッ、コッ・・・をくりかえしていますが、終盤にきて、金管の雄鶏が一声大きく鳴くと雌鶏はシュンと黙り込んでしまいます。
(注1) 山口健児「鶏の事典」読売新聞社
(注2) 正田陽一「家畜と言う名の動物たち」中央公論社
(注3) ショーンバーグ/亀井旭・玉木裕「大作曲家の生涯」共同通信社
(注4. 5)スタンダアル、大岡昇平訳「ハイドン」(創元社)(原文のまま、漢字は現代
略字に変更、著者注)
(注6.7) ショーンバーグ/亀井旭・玉木裕「大作曲家の生涯」 共同通信社
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