2008年7月30日水曜日

第八章 メシアンと鳥たち

第八章 オリビエ・メシアンと鳥たち 

かつて、どこかで、メシアンは鳥類学者でもあったと言う解説を読んだ事がありますが、私が調べた限りではそれを裏付けるような資料は見当たりません。メシアンの著書「リズムの特徴(Traite` du rythme)」の中に「自分は ornithologue(鳥類学者)であり、rythmicien (リズミシャン)である」という記述がありますが、この ornithologue は日頃から鳥を愛し、鳥の生態や鳴き声について、詩的観点からのみならず、科学的観点からもつぶさに観察・研究している人物、という程度に解すべきで、鳥類について専門的研究をしたとか、論文を書いたとかいう意味での鳥類学者とは違うように思います。しかし、幼少の頃から鳥を愛し小鳥の歌声に魅せられていたことだけは確かなようです。 

鳥の声を歌ととらえ、美しい響きと感じて音楽の中に取り入れた作曲家は少なくありませんが、オリビエ・メシアンほど、積極的に鳥のさえずりを自分の音楽に同化させる事に力をつくした作曲家を私は他に知りません。 

メシアンは大戦後間もなく、ミュージック・コンクレートによる音楽の探求に足を踏み入れました。ミュージック・コンクレートとは、具体音楽とでも訳すのでしょうか。電気音響機器だけで音楽を作り出す電子音楽に始まって、存在するあらゆる音を素材として録音し、そのテープを自由に加工して、五線譜に記述し得ない形の音楽を創造しようとする方向に発展して行った前衛的な音楽です(と私流の解釈をしています)。しかし、幾つかのミュージック・コンクレートによる創作を試みた後に、メシアンはこの前衛音楽の向かう先を不毛なものとみなし、楽器及び演奏者によって演奏される伝統的な音楽を作曲する方向に戻って行きました。この重要な方向転換を助けたのが鳥たちの歌声だったのです。 

『すべてがだめになり、道を失い、なにひとつ言うべきものをもたないとき、いかなる先人に習えばよいのか。深淵から抜け出るためにいかなるデーモンに呼び掛けるべきなのか。相対立する多くの流派、新旧の様式、矛盾する音楽語法があるのに、絶望している者に信頼を取り戻す人間的な音楽がない。この時にこそ大自然の声がくるべきなのである。・・私についていえば、鳥に興味をもってその歌を採譜するためにフランス中を歩いている。バルトークが民謡を求めてハンガリー中を歩いたように。これは大変な仕事である。しかし、それは私に再び音楽家である権利を与えた。技術とリズムと霊感とを鳥の歌によって再発見すること。それが私の歴史であった』(注1)これは、一九五八年に、メシアンがブリュッセルの万国博覧会での講演で語った言葉です。 

彼は野外で熱心に小鳥のさえずりを聞き、それを譜面に書きとめました。そして集められた歌声は、必要に応じて速度が変えられ、キーが変えられ、音程が広げられというように、人間の尺度に合うような形に変えられて彼の音楽の中に取り入れられていったのです。 

一九五八年に、足掛け二年をかけて完成されたピアノ曲集「鳥のカタログ」は、メシアンが目指した鳥の歌声と音楽との融合が、最も鮮明な形で具現化された作品と言えます。しかし、メシアンが、それ以前からずっと鳥の声を彼の作曲上のボキャブラリーの一つとして重要視していたことは、その二〇年以上も前から、鳥の歌声がすでに彼の音楽の中で重要な役割を演じている事からも明かです。例えばこの作曲家の初期の作品であるオルガンのための「主の降誕」(一九三五年)にはすでに鳥の声が採用されています。そして第二次大戦中、ドイツ軍の捕虜となってシレジアのキャンプに収容されていた時に作曲した「世の終わりの為の四重奏曲」(一九四一年初演)にも、クロウタドリのさえずりが取り入れられていて、この例はメシアンの一九四四年の著作である "Technique de mon langage musical" (「わが音楽語法」平尾貴四郎訳)の中で彼自身が引用しています。更に、一九四三年の「アーメンの幻影」、一九四四年の「神の存在の三つの小典礼」、「幼子イエスに注がれる二〇のまなざし」、一九四六年の「トゥーランガリラ交響曲」等の作品にはすべて小鳥達の声が織り込まれていて、一九五〇年以降に登場する「クロツグミ」(一九五二年)、「鳥たちの目覚め」(一九五三年初演)、「異国の鳥たち」(一九五六年初演)、「鳥のカタログ」(一九五八年)というような鳥たちが主役の音楽が数多く生み出される基盤は、長い年月をかけて着実に構築されて来ていたのです。 

フルートとピアノのための「クロツグミ」と、ピアノとオーケストラのための「鳥たちの目覚め」は、鳥の歌声が主役の作品で、一九五六年に作曲にとりかかる事になる「鳥のカタログ」のさきがけの役割をはたした作品です。特に「鳥たちの目覚め」は、それ以前の作品では鳥の声は単にその輪郭と旋律的なフィギュレーションが描かれたにすぎなかったのですが、ここでは複数の鳥の声が初めて和声的な手法を使って再現され、鳥の歌声だけで音楽が構成された最初の作品となりました。「異国の鳥たち」は、ピアノ、二つの管楽器、サキソフォーン、グロッケンシュピール、打楽器という面白い楽器群のための音楽で、インド、中国、マレーシア、カナリー諸島、南北アメリカという異なる地域の、自然界では決して出会う事の無い多数の鳥たちを一つの曲の中に招待し共存させています。これも曲全体が鳥の声だけで構成されていて、鳥たちの饗宴がギリシャとインドのリズムに乗って展開されて行きます。そして、ついにピアノだけのための「鳥のカタログ」が登場します。メシアンによれば、音域の広さ、素早いアタック、急速なテンポや音の移動という点で、ある種の鳥たちが発揮する歌の妙技に挑戦可能な楽器はピアノしか無いということなので、ここに登場する多彩な鳥たちを表現するためには、「鳥のカタログ」はピアノ曲とするしかなかったのでしょう。 

「鳥のカタログ」は、キバシガラス(Pyrrhocorax graculus)、ニシコウライウグイス(注2)(Oriolus oriolus)、イソヒヨドリ(Monticola solitarius)、カオグロサバクヒタキ(注3)(Oenanthe hispanica)、モリフクロウ(Strix aluco)、モリヒバリ(Lullula arborea)、ヨーロッパヨシキリ(Acrocephalus scirpaceus)、ヒメコウテンシ(Calandrella brachydactyla)、ヨーロッパウグイス(Cettia cetti)、コシジロイソヒヨドリ(Monticola saxatilis)、ノスリ(Buteo buteo)、クロサバクヒタキ(Oenanthe leucura)、ダイシャクシギ(Numenius arquata)という鳥の名前がつけられた一三曲からなるピアノ曲集ですが、登場する鳥の種類は実に七七種類にものぼります。タイトルの鳥と、その他のどんな鳥がどんな状態で参加しているのかを知るには、メシアン自身が一曲毎につけている解説を参照すのが一番ですが、自らの想像力を思う存分働かせつつ、曲だけを聴いていても十二分に楽しめる事請け合いです。題名に使われた鳥のうちで日本にいる鳥は、三曲目のイソヒヨドリ、一一曲目のノスリ、そして最後の曲のダイシャクシギだけです。ダイシャクシギは冬の間だけ、または渡りの途中に立ち寄るだけで、常時いるわけではありません。その他の鳥では、ヒメコウテンシ、コシジロイソヒヨドリ、クロサバクヒタキ、等がまれに迷鳥として確認される程度です。 

この曲集には含められませんでしたが、全く同列の作品で、もう一曲「ニワムシクイ」(Sylvia borin)と言う名前のピアノ曲があります。あるいは「鳥のカタログーその二」を作るつもりがあったのかも知れません。 

「鳥のカタログ」はモデルになった鳥たちと、ピアニストのイヴォンヌ・ロリオに献呈され、一九五九年、ピエール・ブーレーズの率いるドメーヌ・ミュジカルの演奏会の一環として、イヴォンヌ・ロリオの演奏でその初演が行なわれました。イヴォンヌ・ロリオは一九四三年の「アーメンの幻影」以降、メシアンのほとんど全てのピアノ曲、及びピアノを含む作品の初演でピアノ演奏を受け持ったピアニストで、一九六一年にメシアンと結婚しています。 

オリヴィエ・メシアンを日本に紹介するという面で、力をつくした日本人の音楽家として、私は小澤征爾と武満徹の二人の名前をあげたいと思います。メシアンを親日家とする上でも、この二人は大きな貢献をしています。 

小澤征爾は、今やボストン交響楽団の小澤、サイトウ・キネン・オーケストラの小澤、そしてウィーン国立歌劇場の小澤、そして世界の小澤として揺るぎない名声を確立しておりますが、小澤の名前を「N響事件」と切り離して考えることが出来ないクラシック音楽ファンも少なくないと思います。しかし、そのNHK交響楽団の団員による小澤ボイコットの発端になったのが、一九六二年七月の小澤・N響のコンビによる、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の日本初演であったことはあまり知られていないのではないでしょうか。小澤征爾は早くからメシアンの音楽に強い関心を寄せており、メシアンも小澤征爾の卓越した音楽解析能力を高く評価しておりました。この作曲家が残した唯一のオペラ「アッシジの聖フランソワ」は上演に六時間を要する超大作ですが、一九八三年、パリ・オペラ座に於ける初演を指揮したのは小澤征爾でした。メシアンは作曲中からこのオペラの初演を小澤に任すことを決めており、ピアノ・スコアが出来た段階で、小澤にもそれを見せて初演を依頼しておりました。 

小澤征爾がN響とのトラブルで苦しんでいた頃、芸術家や文化人のグループが、激励の意味を含めて「小澤征爾の音楽を聞く会」を開催しましたが、そのグループの一人に武満徹の名前があったところからも、武満も早くから小澤の才能を高く評価していたことが伺えます。その後急速に力を付けていった小澤は、一九六七年、ニューヨーク・フィルの創立一二五周年記念委嘱作品である、武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」の初演を指揮致しました。オーケストラはもちろん、ニューヨーク・フィルハーモニックでしたが、その直後に、二年前から自分が音楽監督の任に当たっていたトロント交響楽団を使って同曲の録音も行なっています。この「ノヴェンバー・ステップス」の録音は、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」とカップリングされ、RCАビクターからレコードとなって発売されました。小澤征爾の最初期のレコードの一つです。 

武満徹は、日本に最初にメシアンを紹介した一人でした。彼は一九五一年に仲間の音楽家や画家達を集めて「実験工房」と称する芸術家集団を結成しましたが、その実験工房の活動の一環として、メシアンの室内楽を積極的に取り上げていました。従って、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」にも早くから強い関心を寄せていました。「世の終わりのための四重奏曲」は、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、クラリネットという、特殊な楽器構成のアンサンブルのために書かれた作品ですが、ピーター・ゼルキンは、彼が新進ピアニストとして登場して間もない頃、クラリネットのリチャード・ストルツマン等と共に、この「世の終わりのための四重奏曲」を演奏することを目的として「アンサンブル・タッシ」を組織しました。ピーター・ゼルキンと親交のあった武満徹は、アンサンブル・タッシの資質に惚れ込み、自分もこの特殊編成のアンサンブルのための曲を作りたいと考えていました。一九七五年、FM東京から、TDKオリジナル・コンサート放送二〇〇回記念作品の作曲依頼を受けたのを機に、武満はこの考えを実行に移すことに致しました。作曲に取り掛かる前に彼はニューヨークへ行き、タッシのメンバーと一緒に「世の終わりのための四重奏曲」についてメシアンから直接レッスンを受けています。その時、武満はメシアンに、自分もタッシの起用を念頭に同じ編成の四重奏団とオーケストラのための曲を作る計画を持っていることを話し、メシアンから激励の言葉を受けております。そして「カトレーン」が生まれました。計画通りタッシの参加を得て行なわれた「カトレーン」の初演を指揮したのも小澤征爾でした。オーケストラは新日本フィルハーモニーでした。 

メシアンは何度か日本にも来ていますが、一九六二年の訪日のあと、その印象をピアノと一三の管楽器、シロフォン、マリンバ、四つの打楽器、そして八つのヴァイオリンのための、「七つの俳諧」という曲にまとめています。曲は、「序曲」、「奈良の公園と石燈篭」、「山中ーカデンツァ」、「雅楽」、「宮島と海中の鳥居」、「軽井沢の小鳥たち」、「終曲」の七曲から成り、ここでも一三の管楽器による小鳥が中心です。初演は一九六三年、ピエール・ブーレーズの指揮、ドメーヌ・ミュージカル管弦楽団の演奏で、パリにて行なわれました。第四曲の「雅楽」に多少雅楽の響きを思わせる部分はあるものの、その他の曲からは所謂「日本らしい音」は一切聞こえて来ません。全ての風景、印象は、まぎれもないメシアンの音楽となって表現されています。東洋風のリズムも現われますが、それは日本のものではありません。 

鳥の声と共にメシアンの音楽の中核をなしているものが、メシアン特有の多彩なリズムで、それらはグレゴリアン・チャントからギリシャ、インドに至る広い範囲にそのルーツを求めることができます。 

メシアンはほぼ六〇年にわたり、パリのトリニティー教会でオルガン奏者として奉仕をつづけたほどの敬虔なカトリック教徒でしたので、作品にもカトリック信仰に基づく神秘主義的色彩のつよいものが沢山あります。アッシジの聖人フランシチェスコを讚えるオペラ「アッシジの聖フランソワ」にも鳥の声が多用されてはいますが、作曲者の真の意図は、カトリック教義の真理の存在を示すことに他なりませんでした。カトリック教徒メシアンならではの作品です。 

このように見てくると、オリヴィエ・メシアンの音楽とは、自らが収集した鳥の歌声を中心素材に、自らが収集した世界各地のリズムを使って、自らが信ずるカトリック教会に奉仕するために作った音楽であったことが分りります。しかし、それを演奏する人、聴く人がどう受け止めるかは別の問題です。パリ音楽院でメシアンから和声を学び、メシアンの良き理解者でもあるピール・ブーレーズは、『少なくとも私は、鳥に特別な魅力を感じることはないし、鳥の声が多用されているという理由で、メシアンの音楽に対する、私の見方が変わるなどとは考えて見たこともない。基礎となるアイディアを、最終的な音楽作品にまで発展させて行く技法、それこそがこの音楽家の素晴らしいところなのだ。』(注4)と語っており、メシアン自身も『私は、無神論者には、信仰について話している。朝四時に起きて鳥の目覚めの声を聞いた事のない人のためには、鳥について話している。私の音楽の中には沢山の色を取り入れているのだが、人々はそれを見ようとしない。私はリズミシャンなのだが、人々は、軍隊の行進の靴音とリズムとを混同しているようだ』(注5)と言っていて、彼の音楽が彼の意図通り受け止められていないことに心を痛めていたふしがあります。それでもメシアンは、終生、彼自身の音楽で語り続けました。八十才の誕生日を記念する演奏会で初演された「ステンドグラスと鳥たち」、また、八十三才で亡くなる一年前に作曲した大曲「彼方の閃光」というような最晩年の作品も、小鳥、多彩なリズムと色彩、そして敬虔な祈りという、三つの要素にしっかり支えられた作品となっています。 

二十世紀の音楽と聞くと、それだけで尻込みしてしまう人も少なくないようですが、そのような人達も、メシアンを聴けば、きっと私たちの時代の音楽に対する姿勢を改めて下さることになるでしょう。










(注1) ドイツ・グラモフォンCD POCG-1751/3 のリーフレットより
(注2) キガシラコウライウグイスという和名を使っている印刷物が多い。ニシコ       ウライウグイスは山階芳麿著「世界鳥類和名辞典」(大学書林)による。
(注3) カオグロヒタキという和名を使っている印刷物が多いが、学名からカオグ       ロサバクヒタキ(「世界鳥類和名辞典」)が正しいと考えられる。カオグ       ロヒタキという鳥は別にいて、学名は Ficedula tricolor である   
(注4、 5) MONTAIGNE CD MO 781111 のリーフレット Julie de La Bordonnie に
       よる英訳部分より著者訳出

1 件のコメント:

makikochan6 さんのコメント...

突然のコメント、お許し下さい。アメリカでピアノ演奏の博士課程の勉強中の平田真希子と言います。ただいま、メシアンの「天の都市の色彩」の中の4つのアレルヤ聖歌の意味づけと、それを無宗教のピアニストとしていかに理解し、捕らえ、共感して演奏するべきか、と言うことに関してペーパーを書いております。このブログで引用しているJulie de la Bordonne と言う方の英語から日本語に訳されたと言う部分の出所(インターネットでCDの発行番号で検索した所、ブーレッズ指揮のモーツァルトとベルグのCDにたどり着いていしまいました。)とオリジナルの英語をシェアして頂けませんでしょうか?私のメールアドレスは
makikochan6@hotmail.comです。大変助かります。なお、今日は11月26日で、ペーパーは29日に提出となります。それ以降にこのコメントをご覧になった場合、あるいはあまりにもお手数をおかけしてしまうお願いでしたらば、どうぞお忘れになってくださいませ。

突然、失礼致しました。ご丁寧なブログに感銘を受けました。
平田真希子、ピアニスト