2008年7月30日水曜日

第六章 あひる、鵞鳥、はと

第六章 あひる、鵞鳥、そして鳩 


プロコフィエフ 「ピーターと狼」 ー 小鳥とあひる 

プロコフィエフは音楽的には大変早熟な人で、九才の時にはすでに「巨人」と題する子供用オペラを作曲しています。一一才にして早くもラインホールド・グリエールに付いて体系的に、そして専門的に音楽の勉強を始め、一三才でサンクトペテルブルグ音楽院に入学を認められています。以後一〇年間そこで一貫教育を受け、ピアノ、作曲の両部門を卒業する時には、アントン・ルービンシュタイン賞(優等賞)を受賞しました。卒業演奏会では自作のピアノ協奏曲第一番を演奏しています。 

子供のための音楽おとぎ話し「ピーターと狼」が作曲されたのは、一九三六年プロコフィエフが四五才の時で、一時パリに居を構え、ディアギレフのロシア・バレエ団と一緒に仕ことをしていたプロコフィエフが、モスクワに戻り、積極的に祖国のために音楽を書き始めたころの作品です。(プロコフィエフの思いとは裏腹に、祖国ソヴィエトの音楽界はプロコフィエフを、退廃音楽に手を染めた作曲家として告発し続けるのですが。)物語自体もプロコフィエフが自分で書きました。 

この音楽おとぎ話しは、言葉によるナレーションに続いて音楽が演奏され、言葉と音楽とで二度同じ物語が語られる仕組みになっています。主人公のピーターは弦楽四重奏、小鳥はフルート、あひるはオーボエ、猫はクラリネット、お爺さんはバスーン、狼が三本のホルン、猟師がティンパニとバスドラム、というように、物語の登場人物毎に楽器が振り当てられていて、鳴っている楽器により、今、どのキャラクターが活躍しているのかが子供にもよく解かる仕組みになっています。子供用音楽教材として使用されることを意識して作られた作品ですが、十二分にその目的にかなったものに仕上がっていて、今や世界中で、子供を対象とする音楽会のスタンダード・プログラムとなっています。大人が聴いても結構楽しい音楽劇ですし、いろいろな国の言葉によるナレーションのCDが出ていますので、違う言葉のナレーションのCDをいろいろ聴いてみるのも一つの楽しみ方かも知れません。 

アヒルもニワトリと同じ家禽、つまり、人間によって飼い馴らされた鳥で、先祖はガンカモ科(Anser, Anas)の鳥です。しかし、多様化しなかったのは、人間にとっての利用価値が、ニワトリ程は高くなかったからなのでしょう。たしかにアヒルが今以上に上手に鳴けるようになるとは思えませんし、闘争心もニワトリほど旺盛ではないので、喧嘩鳥としても使えそうもありません。産卵量もニワトリにはかないません。愛嬌があって可愛いけれど、人間が作り出した動物の中ではあまり利用価値の高くない動物ということになってしまうのではないでしょうか。 


ラヴェル バレエ音楽「マ・メール・ロア」 ー 鵞鳥 

モーリス・ラヴェルは今世紀前半に活躍したフランスの奇才で、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の編曲や「ダフニスとクロエ」「ボレロ」といった管弦楽の作品を通して広くその名が知られていますが、実際には、ピアノ曲や室内楽に優れた作品を沢山残しています。 

「マ・メール・ロア」という題名は、シャルル・ペローの、一七世紀のおとぎ話しを集めた Contes de ma Mere l'Oye〈私のマザー・グースのお話〉によるもので、いわばフランス版マザー・グースです。一九〇八年から一九一〇年頃にかけて、ラヴェルは「マ・メール・ロア」から五つの物語を選んでピアノ連弾曲を作曲しましたが、すぐ、それを管弦楽用に編曲した上で順序を組み替え、間奏曲を加え、さらに前奏曲と序奏部分を書き加えてバレエ用の音楽に作り変えました。バレエ「マ・メール・ロア」は一九一二年一月に芸術劇場で初演されております。「マ・メール・ロア」の個々の話しを、連続夢物語の形で「眠りの森の美女」の話しの順序につなぎ合わせる工夫がなされていますが、これはラヴェル自身の考案によるものです。バレエ音楽は、その後組曲にもまとめられています。 

「マ・メール・ロア」は題名がマザーグースであると言うだけで、鵞鳥は登場しません。出てくる鳥は、道しるべ代わりに小人がまいておいたパン屑を食べてしまう小鳥だけです。 

ところで、西洋人は一般的にラヴェルの「ボレロ」が大変好きなようです。限られた私の経験だけから断定的な物言いをすることは避けるべきとも思いますが、それでも「ボレロ」が演奏されると会場には異様な雰囲気が充満し、曲が終わると半狂乱に近い人が出現するという現象は日本ではあまり目にしたことがないので、やはり、西洋人にはこの曲に特に強く反応する「何か」があるように思えてなりません。昔、私がそのことを話題に持ち出した時に、私の友人の一人であるイギリス人の女性は「ボレロはセクシーな曲だ」と言いました。パブで酒を飲みながらの話しであったからか、それに同調した男性の友人は「少しずつ、少しずつ盛り上がってゆくあの音楽は、女性がエクスタシィを追求してゆく過程そのものなのではないか」というようなことを言いました。女性の友人がその言葉に敢て異を唱えることをしなかったので、あるいはそうなのかも知れないとその時は思いました。しかし、それならば日本にも女性はいるのに、とも思います。 

一九八四年、サラエボに於ける冬季オリンピックのアイスダンスで、金メダルを獲得したのはイギリスのジェーン・トービルとクリストファ・ディーンのカップルでした。芸術点の審査ではジャッジの全員が満点を付けたくらいの素晴らしい演技でしたが、彼らが使用した音楽がボレロであったことも極めて印象的でした。 


シェーンベルク 「グレの歌」 ー  山鳩 (森の鳩) 

私は、第三章「ナイチンゲール」のところで、ストラヴィンスキーにふれ、彼が二〇世紀を代表する作曲界の巨星の一つであったと書きました。ストラヴィンスキーを巨星と呼んだ以上、二〇世紀のもう一つの巨星、シェーンベルクにふれないわけにはいきません。この二人の後に現われ、優れた作品を残した、あるいは残している作曲家達も、自分の進路を定める上で、何らかの形で二人の影響を受けたはずで、やはりストラヴィンスキーとシェーンベルクの存在は偉大であったと思います。 

ストラヴィンスキーは、礼儀正しいことが美しいことであった時代に荒々しい蛮人の音楽を持ち込み、音楽に健康さと新鮮さを取り戻させることに成功しました。馴れ親しんだロマン派の音楽の殻を破って突き抜ければ、そこに新しい音楽の世界が開けることを万人に示したのです。しかしストラヴィンスキーがその後たどった道は、バーバリズムの展開ではありませんでした。ストラヴィンスキーが「春の祭典」を投げ込むことで手にしたものは、複雑な語法を簡素化し、音楽をもっと根源的な形に還元するための出発点でした。「春の祭典」は「ご破算で願いましては」の役割を果したのです。ストラヴィンスキーの古典への回帰はそこから始まっています。 

一方のシェーンベルクは、ロマン派の巨人ワーグナーの半音階主義を更におしすすめ、ついにはロマン派からも脱却して一二音技法を確立し、無調構成の音楽を作り出すという方向に進みました。つまり、ストラヴィンスキーがすでに複雑すぎると感じた語法を、更に発展させる方向にシェーンベルクは進んでいったのです。その音楽は、従って、大変複雑かつ難解であるといわれています。一二音技法とは、独立した、しかも個々に互いに連係しあうことが可能な一二の音を使って作曲する技法のことで、この技法によって作られた音楽が一二音音楽です。一二音音楽のアイデアは一人シェーンベルクだけのものではありませんでしたが、一二の音の基本的な並べ方と、そのフォームの変換の仕方を確立したのはシェーンベルクの功績です。(注1) 

シェーンベルク派の旗手ルネ・レーボヴィッツは『(シェーンベルクの)音楽はむずかしいきわめて複雑なもので、その意味は、普通音楽に与えられている意味をはるかに越えている。実際、シェーンベルクの貢献は外面からだけ考えられやすいが、それでは彼の貢献の本質は全部見のがされてしまう。シェーンベルクの名前が出るやいなや、無調性とか一二音技法とか不協和音などについて語られるだけで、このような諸様相をもつ技術が、音楽史を通じて稀有の作曲上の急進主義に帰結するものであることは忘れられる(原因ではなく結果である)。だが作品のなかに含められているものは、なによりもまず、特異な力量と独創性によって《音楽を考える》その方法なのだ。この音楽的思考の厳しさによって、作曲の過程自体が、変革されると同時に深く掘り下げられた。』(注2)と書いており、音楽を深く考えれば考えるほど、それを表現する手段として複雑な技法も使わなければならず、結果的に難しい音楽になってしまうのだと言っているように受け取れます。しかし、シェーンベルクの音楽を解析したり演奏したりするには、素人には解からない難しさがあるのかの知れませんが、音となって耳に届く音楽が特に難解な音楽であるようには私には思えません。「浄夜」や「グレの歌」のような初期の調性に基づいた音楽はもちろん、「月に憑かれたピエロ」のような無調の音楽も、みんな美しい、優しい音楽です。 

「グレの歌」は独唱、合唱を伴うオーケストラ曲で、物語が語られるているところから形式的にはオラトリオの部類に属すると言えますが、音楽的構造は交響曲の技法によっており、劇的構造はオペラによっているところから、〈劇的交響曲〉とよぶのが一番ふさわしいように思います。 

少女トーヴェとグレの城の王ヴァルデマルの恋、トーヴェの死、ヴァルデマル王の苦悩と怨念、魂の救済、という内容の物語は、デンマークの城グレの伝説に基づくもので、ペーター・ヤコブセンの詩による物語が壮大な音楽に乗って語られます。(テキストにはロベルト・フランツ・アルノルトのドイツ語訳が使用されています。)物語の中で、少女トーヴェの死は山鳩によって伝えられます。山鳩は「ヘルヴィヒの鷹がグレの鳩を八裂きにした」と悲しげに歌い、ヴァルデマル王に愛されていた少女トーヴェリーレ(可愛い鳩)が、嫉妬深い王女ヘルヴィヒによって殺されたことを知らせます。 

「グレの歌」の特筆すべき特徴の一つは、演奏に要する演奏者の数で、オーケストラは、ピッコロ四、フルート四、オーボエ三、イングリッシュ・ホルン二、イ調または変ロ調のクラリネット三、変ホ調のクラリネット二、バス・クラリネット二、バスーン三、コントラバスーン二、ホルン一〇(時々四本のワーグナーテューバと持ち変え)、トランペット六、バス・トランペット一、アルト・トロンボーン一、テノール・トロンボーン四、バス・トロンボーン一、コントラバス・トロンボーン一、(テューバ一、)ティンパニ六、テノール・ドラム、各種シンバル、トライアングル、グロッケンシュピール、サイド・ドラムとバス・ドラム、(タンバリン、)木琴、タムタム、(鉄鎖、)ハープ四、チェレスタ、第一ヴァイオリン二〇、第二ヴァイオリン二〇、ヴィオラ一六、チェロ一六、コントラバス一二、という編成で、これだけでも約一五〇人、それに独唱者と語り手の計六人、更に三組の男声四部合唱と混声八部合唱からなる合唱団が加わるわると、総勢は悠に二百人を越える大編成で、その規模たるやまさに横綱級といえます。全員がステージの上に上るだけでも大変です。シェーンベルクは「グレの歌」のスコアを作成するにあたって、四八段の五線紙を特注しなければなりませんでした。四八もの違う音が同時に鳴り響く音楽を作るという作業がいかに大変な作業なのかは、ただ想像するしかありませんが、その音のかたまりの中に身をまかせる快感は、聴く人すべててに与えられた特権です。 


ドヴォルザーク 交響詩「野鳩」 

ドヴォルザークは、一八四一年にボヘミアの寒村ネラホゼベスに生まれました。スメタナが確立させたボヘミアの音楽を、世界的に普及させる上で重要な役割をはたしたチェコの作曲家です。一八七四年、プラハでスメタナの指揮によりドヴォルザークの作品一〇の変ホ長調の交響曲(第三番)が演奏されて評判になりましたが、彼がヨーロッパ作曲界で広く知られるようになったのは、翌一八七五年にオーストリア政府の作曲賞に入賞、続いて一八七七年には更に二作品が入賞を果たしてからのことです。このオーストリア政府賞は、ヘルベック、ハンスリック、ブラームスというような、そうそうたるメンバーがその審査に当たるレベルの高いコンテストで、そこで、二度にわたり三作品もの入賞を果たしたというだけでも、ドヴォルザークの才能がいかに秀でたものであったかが分ります。特にブラームスはドヴォルザークを高く評価し、コンテスト以後も、楽譜を出版するための出版社を紹介したり、何かと彼の面倒をみるようになりました。ブラームスは、こと音楽に関する限り同業者には極めて辛辣であったと伝えられていますが、ドヴォルザークに対してだけは例外であったようです。ドヴォルザークは、ブラームスの紹介で彼の曲を出版してくれるようになったジムロックに、『「ブラームスは私と知り合ったことを喜んでくれているように見えます。芸術家、そして人間として、私は彼の親切に圧倒され、彼を敬愛せずにはいられません。あの人は何と暖かい心と偉大な精神を持っていることでしょう。少なくとも彼の作品に関するかぎり、彼は親友にさえ距離を置くのに、私に対してはそうではありませんでした。」』(注3)と話しています。 

名前が知られるようになったのは三〇才を過ぎた後で、ドヴォルザークは決して早咲きの作曲家ではありませんが、ジムロックの手でドヴォルザークの楽譜が出版され始めると、たちまちのうちにヨーロッパにおける屈指の人気作曲家となりました。一般大衆のみならず、ハンス・フォン・ビューローも、ドイツの批評家ルイス・エーレルトも、一様に新しい才能の登場を最大限の賛辞をもって受け入れています。そして、以後今日まで、ドヴォルザークはその作品が常時演奏される作曲家であり続けています。 ところが、ドヴォルザークの音楽は「田舎臭く、野暮ったく、洗練度に欠け、知性的でない」として、一流とは認めようとしない音楽愛好家も少なくありません。事実ドヴォルザークと言う人は、『晩年、彼は時々思い立つと、入門書を読んで 教養を高め ようとした』(注4)知性的という表現は当て嵌めようのない人物であったようです。ボヘミアの寒村に生まれたドヴォルザーク自身が、洗練にどれほどの意味を認めていたかも分りません。しかし彼は音楽家でした。それも深く民族意識に根ざした音楽家でした。そして何よりも特筆されなければならないことは、彼が心身共に極めて健康な普通人であったと言うことです。だからこそ彼は健康的で力強く、純粋で透明な音楽を作り続けることができたのです。ショーンバーグは、『全創作期間を通じ、彼は後期ロマン派中で最も幸福な人間であり、ノイローゼ的要素が最も少ない作曲家であった。「神、愛、母国」が彼のモットーだった。ブラームスは絶望的な憂鬱感を経験し、チャイコフスキーのノイローゼは、途方もないほどひどかった。マーラーのノイローゼは、それに比べればチャイコフスキーのノイローゼが健康的に見えるほどで、マーラーは胸をたたき、髪の毛をかきむしった(その一方、後世の評価がどうなるかと、横目を使っていたが)。ブルックナーは座って震えながら神の啓示を待った神秘家であり、エリザベス時代的な意味での自然主義者であった。ワーグナーはひねくれたエゴイストであり、リストは複雑で矛盾に満ちた天才だが、いかさまのイエズス会牧師だった。ひとりドヴォルザークだけが、単純で屈折のない道を進んだのであり、彼はヘンデル、ハイドンと並んで、あらゆる作曲家中で最も健全な作曲家である。』(注5)と書いていますが、全く同感です。 

一八九二年、ドヴォルザークは請われてアメリカに渡り、ニューヨークのナショナル音楽院の院長に就任しました。ドヴォルザークに白羽の矢がたったのは、ナショナル音楽院の創立に力のあったジャネット・サーバー女史が、かねてから、アメリカに新国民楽派を作りたいと考えていて、彼女が、ほとんど全ての作品に民族主義を体現しているドヴォルザークこそが新国民楽派を目指すアメリカの作曲家が手本とすべき格好の実例と考えたからでした。サーバー夫人の期待にたがわず、ドヴォルザークは滞米中の三年間、アメリカ風民族音楽の創造を提唱し続けました。彼のアイディアは、彼自身が、ハーパー社の「New Monthly Magazine」(一八九五年二月号)に寄せた「アメリカの音楽(Music in America)」に明確に記されています。彼は「アメリカは尽力してきているほとんど全ての分野でまさに驚嘆と呼べるものを手中にしてきているが、こと音楽に関する限りヨーロッパの音楽のへたな模倣に甘んじていて、目指している方向が反対であることは疑う余地が無いと」し、これを正すために成すべきこととして、ニグロとインディアンのメロディーに立脚した、アメリカ的スタイルを育成することであると力説しています。 

ドヴォルザークがアメリカ滞在中に作曲した、第九番(旧称五番)の交響曲「新世界より」の中にも、黒人霊歌のメロディーの断片とかアメリカ・インディアンの音楽を連想させるようなメロディーがちりばめられています。しかしながら、アメリカ風の素材が使われているとはいうものの曲自体は明かにボヘミア風音楽で、これがアメリカ楽派の見本的扱いを受けることがもたらす混乱を危惧してか、ドヴォルザーク自身もこれには格別アメリカ的な要素は含まれていないと主張しています。 

ニューヨークのような都会は、ドヴォルザークにとって決して住みやすい場所ではなかったようです。職務上ニューヨークに居を構えてはいたものの、休暇は必ずアイオワ州の深い森に包まれたスピルヴィルへ行って過ごしました。スピルヴィルはチェコからの移民の町でした。ドヴォルザークは、そこでつのる望郷の想いを癒していたのです。 

交響詩「野鳩」は、ドヴォルザークがアメリカから帰国した後の一八九七年に、祖国チェコの国民的詩人エルベンの詩集「花束」に触発されて作曲したものです。詩集「花束」からインスピレーションを得て作曲した交響詩「野鳩」となれば、ほのぼのとした牧歌的な曲を期待してしまうのが普通ですが、実際には、夫を毒殺して若い男と結婚した女が、夫の墓の樫の木に巣を作った野鳩が悲しげに鳴くのを聞くうちに、次第に良心の呵責に耐えられなくなり、ついには自殺をしてしまうという、何とも生々しい、そして暗い内容の曲なのです。曲は夫の葬儀の場から始まりますが、冒頭で曲全体のベースとなるモチーフが提示されます。そのモチーフの展開がそのまま曲の展開になっていて、間に野鳩の羽音を思わせるような弦楽器や、鳴き声を思わせるような響きが効果的に配されています。 


レスピーギ 組曲「鳥」 ー 鳩 

組曲「鳥」の中で残ったのは鳩だけになっていました。レスピーギの、組曲「鳥」のそれぞれにはもとうたがあることは既に紹介してきた通りですが、この「鳩」のもとうたは、一六八五年頃亡くなったジャック・デ・ガロと言う人によるものです。 

鳩という鳥は、地域によって受け入れられ方が極端に違う鳥で、日本では、ドバトの糞公害は別として、平和のシンボルというように比較的よいイメージで受け入れられていますが、欧米では地域によっては気難しくて、浮気っぽく、可愛くない鳥というイメージが定着しているところもあります。幸いレスピーギの「鳩」はあたたかい声で鳴く優雅な鳥として描かれていて、鳴き声にはオーボエが使われています。 

日本で見かける鳩としては、ドバト、キジバトが圧倒的に多く、続いてアオバトということになるのでしょうか。ドバトはカワラバト(Columba livia)から愛玩用、伝書用、レース用等の目的で家禽化されたものが再野生化したもので、市街地、神社、寺院、駅舎でよく見られます。キジバト(Streptopelia orientalis)も、留鳥として日本全国に分布しています。平地から山地の林を好みますが、市街地でも樹木のあるところならば見ることができるので、環境適応力は比較的旺盛な鳥と言えます。ドバトよりは丸い感じで、全体がぶどう色をしていて、うろこ模様がきれいです。アオバト(Sphenurus sieboldii)も決して数は少ないわけではありませんが、よく茂った広葉樹林におとなしく暮らしていますので、見つけようと思って見ないとあまり目にはつきません。身体は薄緑で、羽根はワイン色をしています。コシラバト(Streptopelia decaocto)は、グレーの身体で首筋に黒い線の入った鳩で、関東地方のごく限られた地域に棲息しています。この鳩は、ヨーロッパでは、一九三〇年頃まではバルカン半島の一部に棲息しているにすぎなかったのですが、その後約四〇年の間にヨーロッパ全域にその分布が広がり、イギリスでは一九五五年頃まではあまり見かけない種類でしたが、今や英国全土何処でも見られるばかりでなく、鳩の仲間のなかでも固体密度の高い種類となっています。カラー・ドーヴと呼ばれるこの鳩は、どうやら他の鳥では埋められない隙間を上手に見つけ出したようで、ヨーロッパでは繁殖面でのサクセス・ストーリーの主人公となりました。そのようなわけで、今は関東地方の一部、埼玉県越谷の近辺でしか見られないこの鳥も、何かのきっけで日本中にその分布が広がるようになるかも知れません。









(注1) The Concise Baker's Biographical Dictionary of Musicians
(注2) レーボヴィッツ著、船山隆訳「シェーンベルク」 白水社
(注3、 4、5)ショーンバーグ著、亀井旭・玉木裕訳「大作曲家の生涯」共同通信社      
 

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