2008年7月30日水曜日

第九章 日本の作曲家と鳥たち

第九章 日本の作曲家と鳥たち 


団伊玖磨  歌劇「夕鶴」 

「夕鶴」は日本の民話「鶴の恩がえし」をもとに、劇作家木下順二が新しい視点に立って一九四八年に戯曲化したもので、芝居は山本安英とぶどうの会の最重要レパートリーとなり、繰り返し繰り返し何度も上演されました。主人公の鶴の化身つうは、初演以来一貫して山本安英によって演じられました。山本安英のつうは、まさに鶴の化身そのもので、杉村春子の「女の一生」のけいと共に新劇史に残る最高の当り役となりました。 

この戯曲の素晴らしいところは、鶴が助けてくれた人に恩を返すというだけの民話のストーリーにとどまらず、鶴自身が自ら幸福な世界を作りたいと願い、自分の羽根を抜いて錦を織りますが、その献身的行為自体が、自分の希望とは全く逆に、男に自分から離れて行く動機を提供することになってしまうという矛盾、幸福を願って追求して行く行為そのものが、幸福を破壊する要素となって蓄積されてゆく矛盾を見事に描き出しているところです。 

歌劇「夕鶴」も木下順二の台本によっています。作曲者の団伊玖磨からオペラ化の話が持ち込まれた時、了承するにあたって木下順二の出した条件は、せりふを一語も変更しないこと、というものでした。この脚本では、鶴の化身つうは標準語を話し、その夫である与ひょうが非標準語を話しますが、この設定が鶴の世界と人間の世界の断絶を示唆していて、人間である夫の与ひょうと、妻である鶴のつうとの会話は、二人が共通の世界にある時以外には成立しません。与ひょうが共通の世界を離れると、つうの言葉は彼には通じなくなってしまうのです。このように言葉自体が重要な役割を担っている戯曲であってみれば、原作者がせりふを一語も変えないことという条件をつけたのも誠にもっともなことと納得できます。 

オペラに方言を持ち込むという難問を、団伊玖磨は見事にクリアーしました。「夕鶴」は日本オペラの傑作といえます。山本安英のつうが観られなくなった今、演劇の「夕鶴」は観る機会が少なくなってしまいましたが、オペラ「夕鶴」はますますその評価を高め、日本のみならず海外でも上演されるようになっていると聞きます。ただ、あれほど言葉にこだわった木下順二の台本が、例えばドイツ語に翻訳されたときにどのように響くのだろうかといささか心配ではあります。 

テレビで、ツルが群れをなしてヒマラヤ山脈越えをする雄壮な光景をご覧になった方は多いと思います。あの、アネハズル Anthropoides virgo は日本にはほとんどやって来ませんが、六月頃、時折り旅鳥として通るのを見かけることが無いわけではありません。 

日本の代表的なツルであるタンチョウには、日本のツルという意味の学名 Grus japonensis がつけられていますが、Nipponia nippon という「日本」を学名にいただく朱鷺のように、このタンチョウも一時絶滅の危機に瀕したことのある鳥です。現在では釧路湿原を中心に、北海道の東部で数百羽のタンチョウが確認されていますが、大正時代には乱獲の結果十数羽にまで激減してしまった時期があったということです。幸い、関係者の懸命な保護活動のおかげで現在の固体数にまで回復しました。しかし、これらの数百羽の大半は、人為的な給餌のもとでかろうじて生命を持続させている半野鳥で、彼らには最早自力で生きてゆけるだけの自然環境は残されていないのです。 


武満徹 「鳥は星形の庭に降りる」      

一九九六年二月に武満徹が亡くなりました。六五才でした。元来あまり身体の丈夫な人ではなかったようですが、それでもなお、武満の死は、人々にそれが突然訪れて来たような印象を強く与えました。彼は世界各地の音楽団体から委嘱を受けて沢山の優れた作品を生みだし、重要な国際賞も数多く受賞しています。もちろん日本でも武満徹の名前はよく知られていますが、作品は日本よりもむしろ海外の方で高く評価されていたと言えるのではないでしょうか。真の意味で日本が世界に誇れる作曲家でした。最後に受賞したのは、死の二週間前に発表になったグレン・グールド国際音楽賞でした。  

世界で最初に武満徹の作品に高い評価を与えた人がストラヴィンスキーであったことは良く知られています。武満の最も初期の作品「弦楽のためのレクイエム」は、それが発表された時(一九五七年)には音楽以前とまで酷評され、武満も作曲家になることを断念しようかと考えたそうです。その後、来日したストラヴィンスキーが、何人かの無名作曲家の作品を聴いた後で、武満の「弦楽のためのレクイエム」を「誠実な、そしてとても厳しい音楽だ」と称賛し、作曲者との面会を強く希望致しました。面会後、ストラヴィンスキーは「タケミツは背が小さいからいい作曲家だ」と言ったそうです。ストラヴィンスキー自身もあまり大きな人ではありませんでした。小澤征爾は「弦楽のためのレクイエム」を欧米各地で演奏し、積極的にこの曲の紹介に努力しました。今でこそ武満の初期の傑作といわれている「弦楽のためのレクイエム」が、傑作としての道を歩み初めた頃のエピソードです。 

「鳥は星形の庭に降りる」は、鳥たちの群れが日本庭園に降りる夢に触発されて作曲された、武満四七才、一九七七年の作品です。サンフランシスコ交響楽団の委嘱に応えて作曲した関係で、武満が付けた曲名は、英語で A Flock Descends into the Pentagonal Garden というものでした。つまり、日本人の作曲家の作品ながら、この作品の日本語の題名は、英語の原題名の翻訳なのです。そのため、時には「鳥は星の庭に降りる」とか、「鳥の群れは五角形の庭に降りる」とか呼ばれることもあるようです。アメリカ国防省の建物が空から見ると五角形であるところから通称ペンタゴンと呼ばれていますが、この曲の名前の中の、ペンタゴナル・ガーデンも、文字面を訳せば五角形の庭ということにはなります。そしてもう少し詩的イマジネーションを働かせれば、星形の庭ということにもなります。しかし、ここでは庭の形はあまり大した問題ではありません。キーは五という数値です。武満は、それを『曲は「5」と言う数を構造の基礎としている。ことに、それは音程関係において顕著である。曲の基本となる音列は、Fシャープを中心とするPentatonic Scale(五音音階)から導かれた五種の旋法と、その各々にスーパーインポーズされる、音程関係を固定した五種のPentatonic Scaleから成っている。』と説明しています。鳥の群れのモチーフはオーボエによって演奏されます。 

武満徹にはもう一曲「鳥が道に降りてきた」と言う題名の、ヴィオラとピアノの為の小品もあります。この曲の英語名は A Bird Came Down the Walk で、ここでは鳥は一羽です。「鳥は星形の庭に降りる」「鳥が道に降りてきた」と言う日本語の題名からは、片方は鳥の群れで、片方は一羽の鳥であるとは即断できません。それでも日本人は格別不便は感じません。言葉の曖昧さにすら「美」を感じることのできるのは日本人だけの特技なのかも知れません。今や俳句は日本だけのものではなくなっていますが、それでも「古池や蛙とびこむ水の音」は、蛙が一匹なのか数匹なのかが不明なため英訳することは不可能だというような議論を聞くと、「日本人なら、誰でも一匹だとわかるのだけどなー。数匹だったら、漫画にはなっても俳句にはならないよなー」と思ってしまいます。 


吉松隆 「朱鷺に寄せる哀歌」     
    「鳥たちの時代」     
    「鳥と虹によせる雅歌」      

現代日本の中堅作曲家である吉松隆と言う人は、鳥に対して、いや生態系全体に対して、地球全体に対して強い関心を持っている人と思われます。この作曲家が作曲した一連の作品を聴けば誰しもがそう思うでしょう。吉松隆には「朱鷺に寄せる哀歌」、「チカプ」、「鳥たちの時代」、「デジタルバード組曲」、「鳥の形をした四つの小品」、「ランダムバード変奏曲」、「鳥と虹によせる雅歌」、というように、鳥を主題にした沢山の作品がありますが、中でも日本の絶滅種、朱鷺を主題にした「朱鷺に寄せる哀歌」は彼の初期の代表作であると同時に、傑作といえる作品です。 

「朱鷺に寄せる哀歌」(一九八〇年)は弦楽オーケストラとピアノの為のもので、演奏に際しては、中央のピアノを挟んで左右に弦楽器が配置されます。そしてピアノの奥にはコントラバスが置かれます。このようにして、弦楽器の翼、ピアノの胴、コントラバスの尾、そして指揮者の頭を持った鳥の形が形成されます。 

トキの学名は Nipponia nippon と言います。日本を学名に持つこの鳥は、一九二〇年代の終り頃までは、佐渡の小佐渡丘陵を中心に多数生息していた鳥ですが、美しいが故に人に捕獲され続けた上に、一九五〇年代以降は、水田への農薬散布が原因でドジョウや蛙が激減、餌を奪われたトキも急速その数を減少させて行きました。しかし一九六七年に佐渡トキ保護センターが設立されるまでは、トキの保護はその急激な減少に危機感を抱いた自然愛好家達の手で細々と行なわれていたに過ぎませんでした。佐渡トキ保護センターの設立は、絶滅から救う為にトキの保護が焦眉の急務であることを国民に知らせる意味では効果はあったものの、イタイイタイ病や、阿賀野川水銀中毒の原因となった工場排水問題、あるいは各地で起こされたぜんそく患者の訴訟に象徴される大気汚染公害等々、環境破壊による生命の危機はすでに人間にまでおよび始めていて、最早トキの保護だけにかかわることが不可能な段階に入ってしまっていました。一九七一年には環境庁が新設され、国として環境保全に注力する体制が作られました。しかし積極的環境破壊論とすら言える列島改造論を旗印に押し進められた高度経済成長政策と、環境保全とを両立させることなど可能な筈もありませんでした。この間にもトキは確実にその数を減らし続け、一九八〇年には、ついにたったの五羽を残すのみとなってしまいました。最早自然増殖は望むべくも無く、翌年の一月、佐渡にいた最後の五羽が人口増殖の目的で捕獲され、野生のトキは日本には一羽もいなくなりました。 

『 美しいものが滅び、むごいものたちが生きのびる。それは確かに自然の摂理かも知れない。しかし、ただ美しいだけのものが駆逐され滅びてしまうのを何と弁解しつつ私達は朱鷺のいない未来を生きて行くのだろう?  この曲は最後の朱鷺たちに捧げられる。ただし、滅びゆくものたちへの哀悼の歌としてではなく、美しい鳥たちのトナリティ(調性)との復活における頌歌として。  そして人間がいつの日か滅びる時、美しい生き物が滅びてしまった、と涙してくれるものはいるのだろうか?という呟きのような問いを添えて。 』(注1) 

これは作曲者吉松隆自身の言葉です。美しいが故に滅びていった、トキへの切々たる哀悼の思いが伝わって来ます。絶滅して行くトキに私たちは何もできませんでした。絶滅に加担したという思いだけが残ります。ニッポニア・ニッポンの棲んでいた国の日本人としては、トキよ、復活してどうかもう一度お前が大空を舞う姿を見せてくれ、と祈らずにはいられません。 

望みはまだ残されています。一九八一年に、既に日本以外の地域にはいないと考えられていたトキが中国の陝西(シェンシー)で発見されました。それも、絶滅から救うことが可能かもしれない固体数の発見でした。直ちに中国政府による「種の保全」の施策が実行に移されました。佐渡トキ保護センターでは、一九九四年以降三回にわたり中国のトキを借り受け、日本に残された最後の五羽との交配を試みましたが人工孵化にまでこぎつけることはできませんでした。日本のトキはすでに老齢に達してしまっていたのです。一九九八年十一月、中国の江沢民国家主席が来日し、皇居宮殿での天皇皇后両陛下との会見の席で、お土産として若いトキのつがいを贈りたいと申し出ました。この時点で佐渡トキ保護センターに残っていたのは、推定年齢三十二才の、足元もおぼつかない「キン」と名付けられた最後の一羽のみでした。 

日中友好のシンボル、雌の洋洋(ヤンヤン)と雄の友友(ヨウヨウ)は、共に中国陝西省洋県のトキ救護飼育センターで生まれた鳥で、一九九九年一月の末、育ての親である若くて美しい席咏梅(シイ・ヨンメイ)さんに伴われて佐渡トキ保護センターにやって来ました。産卵期を間近にひかえての長旅であったにもかかわらず、二羽からは順調に次の世代の命を宿した卵が生まれ、五月の下旬にはその中の一つから待望の雛が誕生しました。一九八一年に人工繁殖を試み始めてから実に十八年、日本での初めての人工孵化によるトキの誕生でした。トキの人工繁殖は中国ではすでに北京動物園とトキ救護飼育センターで行なわれていましたが、それに新たに日本の佐渡トキ保護センターが加わったことになります。種の絶滅と言う最悪の事態は避けられるかも知れません。希望はつながりました。来日してトキの孵化を指導した席咏梅さんが言う通り、「自然の中で自立させるには人間の力がもっと必要」であるに違いありません。トキをここまで追い込んだのが人間である以上、彼らが再び自然の中で自由に翔び回ることが出来るようになるまで、可能な限りの援助を続ける努力を惜しんではなりません。それは人間の責務でもあります。 

[中国から贈られてきた二羽のトキは、佐渡のトキ保護センターで順調に子孫をふやし、二〇〇八年九月二五日、その中の十羽が、試験的に佐渡の空に放たれました。実に二七年ぶりにケージの中ではない、自然の空に、日本の空にトキが舞いました。とは言え、トキが生きてゆくための環境は絶滅の頃にもまして厳しいものになっていますので、本格的な野生復帰が可能なのか否かの判断はまだまだ先のことになります。2008-10著者注]

「鳥たちの時代」は日本フィルハーモニー交響楽団の委嘱により一九八六年に作曲されました。 

吉松は、自分自身がそれなりに納得できる作品が書けたと自覚できた時期になって、突如、彼が親しみ馴染んできた西洋音楽の美しさを解体した「現代音楽」なるものに、許しがたい憤りを感じるようになったと言います。『音楽の美しさと楽しさを破壊し、作る側と聴く側との交感を断ち、同じ時代に生きる才能ある青年から音楽を生み出す意欲を奪った「現代音楽」』(注 )を憎むようになった彼は、現代音楽という混沌の森から飛び立つための新しい翼を模索する時期、「鳥の時代」、を持つことを自分に課しました。そしてこの時期に、彼は鳥をテーマにした作品を作り続けたのです。この「鳥たちの時代」は、そのような時期に作られ、「朱鷺によせる哀歌」「チカプ」に続く〈鳥の三部作〉の最後の作品となりました。 

曲は、1. SKY〈空が鳥たちに与えるもの〉、 2. TREE〈樹が鳥たちと語ること〉、 3. THE SUN〈太陽が鳥たちに贈るもの〉、の三つの部分から成り立っています。一九八六年五月、井上道義の指揮で、日本フィルハーモニー交響楽団により初演されました。 


「鳥と虹によせる雅歌」(一九九四年)は、若くして、ガンに生命を奪われた二才年下の妹に捧げられた曲です。曲のイメージは、作曲者自身の解説によれば、『空にかかった七色の虹の中に、鳥たちが飛び交い、その鳥たちの瞳の中に七色の虹が夢のように映っている・・・・空の端から静かに鳴き始め、虹の中でひたすら空を賛えて鳴き続け、また空の彼方に消えてゆく、虹のような鳥の歌だった。』(注3)というものです。病気の妹が、空の見えない狭い病室のベッドで、「空を見たい」とささやき、「今度生まれるときは鳥になりたい」と言い残して生を終えたとき、吉松は、この虹の中の鳥のイメージを思い起こしていたと言っています。 

この曲は岡山シンフォニーホールからの委嘱に応えたもので、作曲は一九九三年冬より九四年春にかけて進められ、五月末に完成しました。そして一九九四年九月二五日、田中良和指揮の岡山フィルによって初演されました。『この作品は、亡き妹に捧げられる。ただし、鎮魂歌としてではなく、天上で鳥たちと虹に囲まれて戯れている魂によせる雅歌として。』(注4)これも作曲者の言葉です。 

吉松には、交響曲第二番「地球(テラ)」にて、という、かなり大掛かりな作品(一九九一年)があります。絵葉書の最後に、軽井沢にて、とか、パリにて、とか書くのと同じような意味で、ここでは「地球(テラ)」にて、という言い方が使われています。アジア、ヨーロッパ、アフリカという地球各地の音の素材を使って、難破寸前の宇宙船「地球号」からの悲鳴にも似た発信がなされていて、地球にて、と言う題名には説得力があります。しかし、作曲者は希望を捨ててはいません。挽歌、鎮魂歌、雅歌の三つの部分からなるこの曲は、はじめの二曲は「挽歌」と「死者のためのミサ曲」ですが、最後の南からの雅歌では、アフリカ風のリズムの上に、アレルヤの歌声が次第次第に増幅されて行き、地球の未来が決して絶望的なものでないことを示唆してくれています。 

私はこの作曲家の強靱な魂を賞賛します。その思想に共感を覚えます。このような音楽を作る、吉松隆という作曲家の真摯な姿勢に称賛の拍手を贈りつつ、見守り続けて行きたいと思っています。











(注1、2)吉松隆「朱鷺によせる哀歌」プログラム・ノート、 カメラータCD
       25CM-178-9 より転記
(注3、4)日本フィルハーモニー交響楽団第491回定期演奏会プログラムより

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