2008年10月5日日曜日

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2008年7月30日水曜日

あとがき

あとがき 

 私は、幾多の厳しい局面で、音楽を聴いて心を静め重要な決断を下してきました。苦しい時には、小鳥たちの小さな命の躍動を目にすることで、どのくらい勇気づけられたことでしょう。私は音楽と小鳥の近くに居続ける事ができて幸せでした。だから、できるだけ多くの人に、音楽とそして小鳥と親密になっていただきたいと切に思います。 

日本野鳥の会などを通じて私は自然保護に深い関心を寄せている人達に接する機会は多いのですが、自然を愛する人達でも、同時に音楽に関心を持っている人は決して多くないことも分かってきていました。また、音楽を職業とする友人や音楽を聴くことに喜びを感じている友人も少なくないのですが、その人達の中に、小鳥が好きだという人がほとんどいないことも分かってきていました。 私の趣味を他人に押しつけるつもりは毛頭ありませんが、小鳥と音楽とはごくごく近いところにあって、気がつきさえすれば、全く同じ感性で受け入れることができるはずですので、私は、音楽が好きな人には小鳥も、小鳥が好きな人には音楽も好きになって貰えるような、道案内の役割を果たせるようなエッセイを書いてみたいと考えていました。これでその役割が果たせたか否かは全く分りませんが、読んで下さった方の中に、一人でも音楽を聴いてみよう、バード・ウォッチングに参加してみようと、改めて思って下さった方が居られたら本当に嬉しく思います。 

当然の事ながら、もれてしまっている「鳥の曲」はまだまだ沢山あります。でも全部を拾いだす事が目的ではないので、鳥たちもきっと許してくれるでしょう。もし彼らからの抗議の声が大きいようでしたら、改めてそれらの鳥たちのために稿をおこすことに致したいと思います。 

第九章 日本の作曲家と鳥たち

第九章 日本の作曲家と鳥たち 


団伊玖磨  歌劇「夕鶴」 

「夕鶴」は日本の民話「鶴の恩がえし」をもとに、劇作家木下順二が新しい視点に立って一九四八年に戯曲化したもので、芝居は山本安英とぶどうの会の最重要レパートリーとなり、繰り返し繰り返し何度も上演されました。主人公の鶴の化身つうは、初演以来一貫して山本安英によって演じられました。山本安英のつうは、まさに鶴の化身そのもので、杉村春子の「女の一生」のけいと共に新劇史に残る最高の当り役となりました。 

この戯曲の素晴らしいところは、鶴が助けてくれた人に恩を返すというだけの民話のストーリーにとどまらず、鶴自身が自ら幸福な世界を作りたいと願い、自分の羽根を抜いて錦を織りますが、その献身的行為自体が、自分の希望とは全く逆に、男に自分から離れて行く動機を提供することになってしまうという矛盾、幸福を願って追求して行く行為そのものが、幸福を破壊する要素となって蓄積されてゆく矛盾を見事に描き出しているところです。 

歌劇「夕鶴」も木下順二の台本によっています。作曲者の団伊玖磨からオペラ化の話が持ち込まれた時、了承するにあたって木下順二の出した条件は、せりふを一語も変更しないこと、というものでした。この脚本では、鶴の化身つうは標準語を話し、その夫である与ひょうが非標準語を話しますが、この設定が鶴の世界と人間の世界の断絶を示唆していて、人間である夫の与ひょうと、妻である鶴のつうとの会話は、二人が共通の世界にある時以外には成立しません。与ひょうが共通の世界を離れると、つうの言葉は彼には通じなくなってしまうのです。このように言葉自体が重要な役割を担っている戯曲であってみれば、原作者がせりふを一語も変えないことという条件をつけたのも誠にもっともなことと納得できます。 

オペラに方言を持ち込むという難問を、団伊玖磨は見事にクリアーしました。「夕鶴」は日本オペラの傑作といえます。山本安英のつうが観られなくなった今、演劇の「夕鶴」は観る機会が少なくなってしまいましたが、オペラ「夕鶴」はますますその評価を高め、日本のみならず海外でも上演されるようになっていると聞きます。ただ、あれほど言葉にこだわった木下順二の台本が、例えばドイツ語に翻訳されたときにどのように響くのだろうかといささか心配ではあります。 

テレビで、ツルが群れをなしてヒマラヤ山脈越えをする雄壮な光景をご覧になった方は多いと思います。あの、アネハズル Anthropoides virgo は日本にはほとんどやって来ませんが、六月頃、時折り旅鳥として通るのを見かけることが無いわけではありません。 

日本の代表的なツルであるタンチョウには、日本のツルという意味の学名 Grus japonensis がつけられていますが、Nipponia nippon という「日本」を学名にいただく朱鷺のように、このタンチョウも一時絶滅の危機に瀕したことのある鳥です。現在では釧路湿原を中心に、北海道の東部で数百羽のタンチョウが確認されていますが、大正時代には乱獲の結果十数羽にまで激減してしまった時期があったということです。幸い、関係者の懸命な保護活動のおかげで現在の固体数にまで回復しました。しかし、これらの数百羽の大半は、人為的な給餌のもとでかろうじて生命を持続させている半野鳥で、彼らには最早自力で生きてゆけるだけの自然環境は残されていないのです。 


武満徹 「鳥は星形の庭に降りる」      

一九九六年二月に武満徹が亡くなりました。六五才でした。元来あまり身体の丈夫な人ではなかったようですが、それでもなお、武満の死は、人々にそれが突然訪れて来たような印象を強く与えました。彼は世界各地の音楽団体から委嘱を受けて沢山の優れた作品を生みだし、重要な国際賞も数多く受賞しています。もちろん日本でも武満徹の名前はよく知られていますが、作品は日本よりもむしろ海外の方で高く評価されていたと言えるのではないでしょうか。真の意味で日本が世界に誇れる作曲家でした。最後に受賞したのは、死の二週間前に発表になったグレン・グールド国際音楽賞でした。  

世界で最初に武満徹の作品に高い評価を与えた人がストラヴィンスキーであったことは良く知られています。武満の最も初期の作品「弦楽のためのレクイエム」は、それが発表された時(一九五七年)には音楽以前とまで酷評され、武満も作曲家になることを断念しようかと考えたそうです。その後、来日したストラヴィンスキーが、何人かの無名作曲家の作品を聴いた後で、武満の「弦楽のためのレクイエム」を「誠実な、そしてとても厳しい音楽だ」と称賛し、作曲者との面会を強く希望致しました。面会後、ストラヴィンスキーは「タケミツは背が小さいからいい作曲家だ」と言ったそうです。ストラヴィンスキー自身もあまり大きな人ではありませんでした。小澤征爾は「弦楽のためのレクイエム」を欧米各地で演奏し、積極的にこの曲の紹介に努力しました。今でこそ武満の初期の傑作といわれている「弦楽のためのレクイエム」が、傑作としての道を歩み初めた頃のエピソードです。 

「鳥は星形の庭に降りる」は、鳥たちの群れが日本庭園に降りる夢に触発されて作曲された、武満四七才、一九七七年の作品です。サンフランシスコ交響楽団の委嘱に応えて作曲した関係で、武満が付けた曲名は、英語で A Flock Descends into the Pentagonal Garden というものでした。つまり、日本人の作曲家の作品ながら、この作品の日本語の題名は、英語の原題名の翻訳なのです。そのため、時には「鳥は星の庭に降りる」とか、「鳥の群れは五角形の庭に降りる」とか呼ばれることもあるようです。アメリカ国防省の建物が空から見ると五角形であるところから通称ペンタゴンと呼ばれていますが、この曲の名前の中の、ペンタゴナル・ガーデンも、文字面を訳せば五角形の庭ということにはなります。そしてもう少し詩的イマジネーションを働かせれば、星形の庭ということにもなります。しかし、ここでは庭の形はあまり大した問題ではありません。キーは五という数値です。武満は、それを『曲は「5」と言う数を構造の基礎としている。ことに、それは音程関係において顕著である。曲の基本となる音列は、Fシャープを中心とするPentatonic Scale(五音音階)から導かれた五種の旋法と、その各々にスーパーインポーズされる、音程関係を固定した五種のPentatonic Scaleから成っている。』と説明しています。鳥の群れのモチーフはオーボエによって演奏されます。 

武満徹にはもう一曲「鳥が道に降りてきた」と言う題名の、ヴィオラとピアノの為の小品もあります。この曲の英語名は A Bird Came Down the Walk で、ここでは鳥は一羽です。「鳥は星形の庭に降りる」「鳥が道に降りてきた」と言う日本語の題名からは、片方は鳥の群れで、片方は一羽の鳥であるとは即断できません。それでも日本人は格別不便は感じません。言葉の曖昧さにすら「美」を感じることのできるのは日本人だけの特技なのかも知れません。今や俳句は日本だけのものではなくなっていますが、それでも「古池や蛙とびこむ水の音」は、蛙が一匹なのか数匹なのかが不明なため英訳することは不可能だというような議論を聞くと、「日本人なら、誰でも一匹だとわかるのだけどなー。数匹だったら、漫画にはなっても俳句にはならないよなー」と思ってしまいます。 


吉松隆 「朱鷺に寄せる哀歌」     
    「鳥たちの時代」     
    「鳥と虹によせる雅歌」      

現代日本の中堅作曲家である吉松隆と言う人は、鳥に対して、いや生態系全体に対して、地球全体に対して強い関心を持っている人と思われます。この作曲家が作曲した一連の作品を聴けば誰しもがそう思うでしょう。吉松隆には「朱鷺に寄せる哀歌」、「チカプ」、「鳥たちの時代」、「デジタルバード組曲」、「鳥の形をした四つの小品」、「ランダムバード変奏曲」、「鳥と虹によせる雅歌」、というように、鳥を主題にした沢山の作品がありますが、中でも日本の絶滅種、朱鷺を主題にした「朱鷺に寄せる哀歌」は彼の初期の代表作であると同時に、傑作といえる作品です。 

「朱鷺に寄せる哀歌」(一九八〇年)は弦楽オーケストラとピアノの為のもので、演奏に際しては、中央のピアノを挟んで左右に弦楽器が配置されます。そしてピアノの奥にはコントラバスが置かれます。このようにして、弦楽器の翼、ピアノの胴、コントラバスの尾、そして指揮者の頭を持った鳥の形が形成されます。 

トキの学名は Nipponia nippon と言います。日本を学名に持つこの鳥は、一九二〇年代の終り頃までは、佐渡の小佐渡丘陵を中心に多数生息していた鳥ですが、美しいが故に人に捕獲され続けた上に、一九五〇年代以降は、水田への農薬散布が原因でドジョウや蛙が激減、餌を奪われたトキも急速その数を減少させて行きました。しかし一九六七年に佐渡トキ保護センターが設立されるまでは、トキの保護はその急激な減少に危機感を抱いた自然愛好家達の手で細々と行なわれていたに過ぎませんでした。佐渡トキ保護センターの設立は、絶滅から救う為にトキの保護が焦眉の急務であることを国民に知らせる意味では効果はあったものの、イタイイタイ病や、阿賀野川水銀中毒の原因となった工場排水問題、あるいは各地で起こされたぜんそく患者の訴訟に象徴される大気汚染公害等々、環境破壊による生命の危機はすでに人間にまでおよび始めていて、最早トキの保護だけにかかわることが不可能な段階に入ってしまっていました。一九七一年には環境庁が新設され、国として環境保全に注力する体制が作られました。しかし積極的環境破壊論とすら言える列島改造論を旗印に押し進められた高度経済成長政策と、環境保全とを両立させることなど可能な筈もありませんでした。この間にもトキは確実にその数を減らし続け、一九八〇年には、ついにたったの五羽を残すのみとなってしまいました。最早自然増殖は望むべくも無く、翌年の一月、佐渡にいた最後の五羽が人口増殖の目的で捕獲され、野生のトキは日本には一羽もいなくなりました。 

『 美しいものが滅び、むごいものたちが生きのびる。それは確かに自然の摂理かも知れない。しかし、ただ美しいだけのものが駆逐され滅びてしまうのを何と弁解しつつ私達は朱鷺のいない未来を生きて行くのだろう?  この曲は最後の朱鷺たちに捧げられる。ただし、滅びゆくものたちへの哀悼の歌としてではなく、美しい鳥たちのトナリティ(調性)との復活における頌歌として。  そして人間がいつの日か滅びる時、美しい生き物が滅びてしまった、と涙してくれるものはいるのだろうか?という呟きのような問いを添えて。 』(注1) 

これは作曲者吉松隆自身の言葉です。美しいが故に滅びていった、トキへの切々たる哀悼の思いが伝わって来ます。絶滅して行くトキに私たちは何もできませんでした。絶滅に加担したという思いだけが残ります。ニッポニア・ニッポンの棲んでいた国の日本人としては、トキよ、復活してどうかもう一度お前が大空を舞う姿を見せてくれ、と祈らずにはいられません。 

望みはまだ残されています。一九八一年に、既に日本以外の地域にはいないと考えられていたトキが中国の陝西(シェンシー)で発見されました。それも、絶滅から救うことが可能かもしれない固体数の発見でした。直ちに中国政府による「種の保全」の施策が実行に移されました。佐渡トキ保護センターでは、一九九四年以降三回にわたり中国のトキを借り受け、日本に残された最後の五羽との交配を試みましたが人工孵化にまでこぎつけることはできませんでした。日本のトキはすでに老齢に達してしまっていたのです。一九九八年十一月、中国の江沢民国家主席が来日し、皇居宮殿での天皇皇后両陛下との会見の席で、お土産として若いトキのつがいを贈りたいと申し出ました。この時点で佐渡トキ保護センターに残っていたのは、推定年齢三十二才の、足元もおぼつかない「キン」と名付けられた最後の一羽のみでした。 

日中友好のシンボル、雌の洋洋(ヤンヤン)と雄の友友(ヨウヨウ)は、共に中国陝西省洋県のトキ救護飼育センターで生まれた鳥で、一九九九年一月の末、育ての親である若くて美しい席咏梅(シイ・ヨンメイ)さんに伴われて佐渡トキ保護センターにやって来ました。産卵期を間近にひかえての長旅であったにもかかわらず、二羽からは順調に次の世代の命を宿した卵が生まれ、五月の下旬にはその中の一つから待望の雛が誕生しました。一九八一年に人工繁殖を試み始めてから実に十八年、日本での初めての人工孵化によるトキの誕生でした。トキの人工繁殖は中国ではすでに北京動物園とトキ救護飼育センターで行なわれていましたが、それに新たに日本の佐渡トキ保護センターが加わったことになります。種の絶滅と言う最悪の事態は避けられるかも知れません。希望はつながりました。来日してトキの孵化を指導した席咏梅さんが言う通り、「自然の中で自立させるには人間の力がもっと必要」であるに違いありません。トキをここまで追い込んだのが人間である以上、彼らが再び自然の中で自由に翔び回ることが出来るようになるまで、可能な限りの援助を続ける努力を惜しんではなりません。それは人間の責務でもあります。 

[中国から贈られてきた二羽のトキは、佐渡のトキ保護センターで順調に子孫をふやし、二〇〇八年九月二五日、その中の十羽が、試験的に佐渡の空に放たれました。実に二七年ぶりにケージの中ではない、自然の空に、日本の空にトキが舞いました。とは言え、トキが生きてゆくための環境は絶滅の頃にもまして厳しいものになっていますので、本格的な野生復帰が可能なのか否かの判断はまだまだ先のことになります。2008-10著者注]

「鳥たちの時代」は日本フィルハーモニー交響楽団の委嘱により一九八六年に作曲されました。 

吉松は、自分自身がそれなりに納得できる作品が書けたと自覚できた時期になって、突如、彼が親しみ馴染んできた西洋音楽の美しさを解体した「現代音楽」なるものに、許しがたい憤りを感じるようになったと言います。『音楽の美しさと楽しさを破壊し、作る側と聴く側との交感を断ち、同じ時代に生きる才能ある青年から音楽を生み出す意欲を奪った「現代音楽」』(注 )を憎むようになった彼は、現代音楽という混沌の森から飛び立つための新しい翼を模索する時期、「鳥の時代」、を持つことを自分に課しました。そしてこの時期に、彼は鳥をテーマにした作品を作り続けたのです。この「鳥たちの時代」は、そのような時期に作られ、「朱鷺によせる哀歌」「チカプ」に続く〈鳥の三部作〉の最後の作品となりました。 

曲は、1. SKY〈空が鳥たちに与えるもの〉、 2. TREE〈樹が鳥たちと語ること〉、 3. THE SUN〈太陽が鳥たちに贈るもの〉、の三つの部分から成り立っています。一九八六年五月、井上道義の指揮で、日本フィルハーモニー交響楽団により初演されました。 


「鳥と虹によせる雅歌」(一九九四年)は、若くして、ガンに生命を奪われた二才年下の妹に捧げられた曲です。曲のイメージは、作曲者自身の解説によれば、『空にかかった七色の虹の中に、鳥たちが飛び交い、その鳥たちの瞳の中に七色の虹が夢のように映っている・・・・空の端から静かに鳴き始め、虹の中でひたすら空を賛えて鳴き続け、また空の彼方に消えてゆく、虹のような鳥の歌だった。』(注3)というものです。病気の妹が、空の見えない狭い病室のベッドで、「空を見たい」とささやき、「今度生まれるときは鳥になりたい」と言い残して生を終えたとき、吉松は、この虹の中の鳥のイメージを思い起こしていたと言っています。 

この曲は岡山シンフォニーホールからの委嘱に応えたもので、作曲は一九九三年冬より九四年春にかけて進められ、五月末に完成しました。そして一九九四年九月二五日、田中良和指揮の岡山フィルによって初演されました。『この作品は、亡き妹に捧げられる。ただし、鎮魂歌としてではなく、天上で鳥たちと虹に囲まれて戯れている魂によせる雅歌として。』(注4)これも作曲者の言葉です。 

吉松には、交響曲第二番「地球(テラ)」にて、という、かなり大掛かりな作品(一九九一年)があります。絵葉書の最後に、軽井沢にて、とか、パリにて、とか書くのと同じような意味で、ここでは「地球(テラ)」にて、という言い方が使われています。アジア、ヨーロッパ、アフリカという地球各地の音の素材を使って、難破寸前の宇宙船「地球号」からの悲鳴にも似た発信がなされていて、地球にて、と言う題名には説得力があります。しかし、作曲者は希望を捨ててはいません。挽歌、鎮魂歌、雅歌の三つの部分からなるこの曲は、はじめの二曲は「挽歌」と「死者のためのミサ曲」ですが、最後の南からの雅歌では、アフリカ風のリズムの上に、アレルヤの歌声が次第次第に増幅されて行き、地球の未来が決して絶望的なものでないことを示唆してくれています。 

私はこの作曲家の強靱な魂を賞賛します。その思想に共感を覚えます。このような音楽を作る、吉松隆という作曲家の真摯な姿勢に称賛の拍手を贈りつつ、見守り続けて行きたいと思っています。











(注1、2)吉松隆「朱鷺によせる哀歌」プログラム・ノート、 カメラータCD
       25CM-178-9 より転記
(注3、4)日本フィルハーモニー交響楽団第491回定期演奏会プログラムより

第八章 メシアンと鳥たち

第八章 オリビエ・メシアンと鳥たち 

かつて、どこかで、メシアンは鳥類学者でもあったと言う解説を読んだ事がありますが、私が調べた限りではそれを裏付けるような資料は見当たりません。メシアンの著書「リズムの特徴(Traite` du rythme)」の中に「自分は ornithologue(鳥類学者)であり、rythmicien (リズミシャン)である」という記述がありますが、この ornithologue は日頃から鳥を愛し、鳥の生態や鳴き声について、詩的観点からのみならず、科学的観点からもつぶさに観察・研究している人物、という程度に解すべきで、鳥類について専門的研究をしたとか、論文を書いたとかいう意味での鳥類学者とは違うように思います。しかし、幼少の頃から鳥を愛し小鳥の歌声に魅せられていたことだけは確かなようです。 

鳥の声を歌ととらえ、美しい響きと感じて音楽の中に取り入れた作曲家は少なくありませんが、オリビエ・メシアンほど、積極的に鳥のさえずりを自分の音楽に同化させる事に力をつくした作曲家を私は他に知りません。 

メシアンは大戦後間もなく、ミュージック・コンクレートによる音楽の探求に足を踏み入れました。ミュージック・コンクレートとは、具体音楽とでも訳すのでしょうか。電気音響機器だけで音楽を作り出す電子音楽に始まって、存在するあらゆる音を素材として録音し、そのテープを自由に加工して、五線譜に記述し得ない形の音楽を創造しようとする方向に発展して行った前衛的な音楽です(と私流の解釈をしています)。しかし、幾つかのミュージック・コンクレートによる創作を試みた後に、メシアンはこの前衛音楽の向かう先を不毛なものとみなし、楽器及び演奏者によって演奏される伝統的な音楽を作曲する方向に戻って行きました。この重要な方向転換を助けたのが鳥たちの歌声だったのです。 

『すべてがだめになり、道を失い、なにひとつ言うべきものをもたないとき、いかなる先人に習えばよいのか。深淵から抜け出るためにいかなるデーモンに呼び掛けるべきなのか。相対立する多くの流派、新旧の様式、矛盾する音楽語法があるのに、絶望している者に信頼を取り戻す人間的な音楽がない。この時にこそ大自然の声がくるべきなのである。・・私についていえば、鳥に興味をもってその歌を採譜するためにフランス中を歩いている。バルトークが民謡を求めてハンガリー中を歩いたように。これは大変な仕事である。しかし、それは私に再び音楽家である権利を与えた。技術とリズムと霊感とを鳥の歌によって再発見すること。それが私の歴史であった』(注1)これは、一九五八年に、メシアンがブリュッセルの万国博覧会での講演で語った言葉です。 

彼は野外で熱心に小鳥のさえずりを聞き、それを譜面に書きとめました。そして集められた歌声は、必要に応じて速度が変えられ、キーが変えられ、音程が広げられというように、人間の尺度に合うような形に変えられて彼の音楽の中に取り入れられていったのです。 

一九五八年に、足掛け二年をかけて完成されたピアノ曲集「鳥のカタログ」は、メシアンが目指した鳥の歌声と音楽との融合が、最も鮮明な形で具現化された作品と言えます。しかし、メシアンが、それ以前からずっと鳥の声を彼の作曲上のボキャブラリーの一つとして重要視していたことは、その二〇年以上も前から、鳥の歌声がすでに彼の音楽の中で重要な役割を演じている事からも明かです。例えばこの作曲家の初期の作品であるオルガンのための「主の降誕」(一九三五年)にはすでに鳥の声が採用されています。そして第二次大戦中、ドイツ軍の捕虜となってシレジアのキャンプに収容されていた時に作曲した「世の終わりの為の四重奏曲」(一九四一年初演)にも、クロウタドリのさえずりが取り入れられていて、この例はメシアンの一九四四年の著作である "Technique de mon langage musical" (「わが音楽語法」平尾貴四郎訳)の中で彼自身が引用しています。更に、一九四三年の「アーメンの幻影」、一九四四年の「神の存在の三つの小典礼」、「幼子イエスに注がれる二〇のまなざし」、一九四六年の「トゥーランガリラ交響曲」等の作品にはすべて小鳥達の声が織り込まれていて、一九五〇年以降に登場する「クロツグミ」(一九五二年)、「鳥たちの目覚め」(一九五三年初演)、「異国の鳥たち」(一九五六年初演)、「鳥のカタログ」(一九五八年)というような鳥たちが主役の音楽が数多く生み出される基盤は、長い年月をかけて着実に構築されて来ていたのです。 

フルートとピアノのための「クロツグミ」と、ピアノとオーケストラのための「鳥たちの目覚め」は、鳥の歌声が主役の作品で、一九五六年に作曲にとりかかる事になる「鳥のカタログ」のさきがけの役割をはたした作品です。特に「鳥たちの目覚め」は、それ以前の作品では鳥の声は単にその輪郭と旋律的なフィギュレーションが描かれたにすぎなかったのですが、ここでは複数の鳥の声が初めて和声的な手法を使って再現され、鳥の歌声だけで音楽が構成された最初の作品となりました。「異国の鳥たち」は、ピアノ、二つの管楽器、サキソフォーン、グロッケンシュピール、打楽器という面白い楽器群のための音楽で、インド、中国、マレーシア、カナリー諸島、南北アメリカという異なる地域の、自然界では決して出会う事の無い多数の鳥たちを一つの曲の中に招待し共存させています。これも曲全体が鳥の声だけで構成されていて、鳥たちの饗宴がギリシャとインドのリズムに乗って展開されて行きます。そして、ついにピアノだけのための「鳥のカタログ」が登場します。メシアンによれば、音域の広さ、素早いアタック、急速なテンポや音の移動という点で、ある種の鳥たちが発揮する歌の妙技に挑戦可能な楽器はピアノしか無いということなので、ここに登場する多彩な鳥たちを表現するためには、「鳥のカタログ」はピアノ曲とするしかなかったのでしょう。 

「鳥のカタログ」は、キバシガラス(Pyrrhocorax graculus)、ニシコウライウグイス(注2)(Oriolus oriolus)、イソヒヨドリ(Monticola solitarius)、カオグロサバクヒタキ(注3)(Oenanthe hispanica)、モリフクロウ(Strix aluco)、モリヒバリ(Lullula arborea)、ヨーロッパヨシキリ(Acrocephalus scirpaceus)、ヒメコウテンシ(Calandrella brachydactyla)、ヨーロッパウグイス(Cettia cetti)、コシジロイソヒヨドリ(Monticola saxatilis)、ノスリ(Buteo buteo)、クロサバクヒタキ(Oenanthe leucura)、ダイシャクシギ(Numenius arquata)という鳥の名前がつけられた一三曲からなるピアノ曲集ですが、登場する鳥の種類は実に七七種類にものぼります。タイトルの鳥と、その他のどんな鳥がどんな状態で参加しているのかを知るには、メシアン自身が一曲毎につけている解説を参照すのが一番ですが、自らの想像力を思う存分働かせつつ、曲だけを聴いていても十二分に楽しめる事請け合いです。題名に使われた鳥のうちで日本にいる鳥は、三曲目のイソヒヨドリ、一一曲目のノスリ、そして最後の曲のダイシャクシギだけです。ダイシャクシギは冬の間だけ、または渡りの途中に立ち寄るだけで、常時いるわけではありません。その他の鳥では、ヒメコウテンシ、コシジロイソヒヨドリ、クロサバクヒタキ、等がまれに迷鳥として確認される程度です。 

この曲集には含められませんでしたが、全く同列の作品で、もう一曲「ニワムシクイ」(Sylvia borin)と言う名前のピアノ曲があります。あるいは「鳥のカタログーその二」を作るつもりがあったのかも知れません。 

「鳥のカタログ」はモデルになった鳥たちと、ピアニストのイヴォンヌ・ロリオに献呈され、一九五九年、ピエール・ブーレーズの率いるドメーヌ・ミュジカルの演奏会の一環として、イヴォンヌ・ロリオの演奏でその初演が行なわれました。イヴォンヌ・ロリオは一九四三年の「アーメンの幻影」以降、メシアンのほとんど全てのピアノ曲、及びピアノを含む作品の初演でピアノ演奏を受け持ったピアニストで、一九六一年にメシアンと結婚しています。 

オリヴィエ・メシアンを日本に紹介するという面で、力をつくした日本人の音楽家として、私は小澤征爾と武満徹の二人の名前をあげたいと思います。メシアンを親日家とする上でも、この二人は大きな貢献をしています。 

小澤征爾は、今やボストン交響楽団の小澤、サイトウ・キネン・オーケストラの小澤、そしてウィーン国立歌劇場の小澤、そして世界の小澤として揺るぎない名声を確立しておりますが、小澤の名前を「N響事件」と切り離して考えることが出来ないクラシック音楽ファンも少なくないと思います。しかし、そのNHK交響楽団の団員による小澤ボイコットの発端になったのが、一九六二年七月の小澤・N響のコンビによる、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の日本初演であったことはあまり知られていないのではないでしょうか。小澤征爾は早くからメシアンの音楽に強い関心を寄せており、メシアンも小澤征爾の卓越した音楽解析能力を高く評価しておりました。この作曲家が残した唯一のオペラ「アッシジの聖フランソワ」は上演に六時間を要する超大作ですが、一九八三年、パリ・オペラ座に於ける初演を指揮したのは小澤征爾でした。メシアンは作曲中からこのオペラの初演を小澤に任すことを決めており、ピアノ・スコアが出来た段階で、小澤にもそれを見せて初演を依頼しておりました。 

小澤征爾がN響とのトラブルで苦しんでいた頃、芸術家や文化人のグループが、激励の意味を含めて「小澤征爾の音楽を聞く会」を開催しましたが、そのグループの一人に武満徹の名前があったところからも、武満も早くから小澤の才能を高く評価していたことが伺えます。その後急速に力を付けていった小澤は、一九六七年、ニューヨーク・フィルの創立一二五周年記念委嘱作品である、武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」の初演を指揮致しました。オーケストラはもちろん、ニューヨーク・フィルハーモニックでしたが、その直後に、二年前から自分が音楽監督の任に当たっていたトロント交響楽団を使って同曲の録音も行なっています。この「ノヴェンバー・ステップス」の録音は、メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」とカップリングされ、RCАビクターからレコードとなって発売されました。小澤征爾の最初期のレコードの一つです。 

武満徹は、日本に最初にメシアンを紹介した一人でした。彼は一九五一年に仲間の音楽家や画家達を集めて「実験工房」と称する芸術家集団を結成しましたが、その実験工房の活動の一環として、メシアンの室内楽を積極的に取り上げていました。従って、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」にも早くから強い関心を寄せていました。「世の終わりのための四重奏曲」は、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、クラリネットという、特殊な楽器構成のアンサンブルのために書かれた作品ですが、ピーター・ゼルキンは、彼が新進ピアニストとして登場して間もない頃、クラリネットのリチャード・ストルツマン等と共に、この「世の終わりのための四重奏曲」を演奏することを目的として「アンサンブル・タッシ」を組織しました。ピーター・ゼルキンと親交のあった武満徹は、アンサンブル・タッシの資質に惚れ込み、自分もこの特殊編成のアンサンブルのための曲を作りたいと考えていました。一九七五年、FM東京から、TDKオリジナル・コンサート放送二〇〇回記念作品の作曲依頼を受けたのを機に、武満はこの考えを実行に移すことに致しました。作曲に取り掛かる前に彼はニューヨークへ行き、タッシのメンバーと一緒に「世の終わりのための四重奏曲」についてメシアンから直接レッスンを受けています。その時、武満はメシアンに、自分もタッシの起用を念頭に同じ編成の四重奏団とオーケストラのための曲を作る計画を持っていることを話し、メシアンから激励の言葉を受けております。そして「カトレーン」が生まれました。計画通りタッシの参加を得て行なわれた「カトレーン」の初演を指揮したのも小澤征爾でした。オーケストラは新日本フィルハーモニーでした。 

メシアンは何度か日本にも来ていますが、一九六二年の訪日のあと、その印象をピアノと一三の管楽器、シロフォン、マリンバ、四つの打楽器、そして八つのヴァイオリンのための、「七つの俳諧」という曲にまとめています。曲は、「序曲」、「奈良の公園と石燈篭」、「山中ーカデンツァ」、「雅楽」、「宮島と海中の鳥居」、「軽井沢の小鳥たち」、「終曲」の七曲から成り、ここでも一三の管楽器による小鳥が中心です。初演は一九六三年、ピエール・ブーレーズの指揮、ドメーヌ・ミュージカル管弦楽団の演奏で、パリにて行なわれました。第四曲の「雅楽」に多少雅楽の響きを思わせる部分はあるものの、その他の曲からは所謂「日本らしい音」は一切聞こえて来ません。全ての風景、印象は、まぎれもないメシアンの音楽となって表現されています。東洋風のリズムも現われますが、それは日本のものではありません。 

鳥の声と共にメシアンの音楽の中核をなしているものが、メシアン特有の多彩なリズムで、それらはグレゴリアン・チャントからギリシャ、インドに至る広い範囲にそのルーツを求めることができます。 

メシアンはほぼ六〇年にわたり、パリのトリニティー教会でオルガン奏者として奉仕をつづけたほどの敬虔なカトリック教徒でしたので、作品にもカトリック信仰に基づく神秘主義的色彩のつよいものが沢山あります。アッシジの聖人フランシチェスコを讚えるオペラ「アッシジの聖フランソワ」にも鳥の声が多用されてはいますが、作曲者の真の意図は、カトリック教義の真理の存在を示すことに他なりませんでした。カトリック教徒メシアンならではの作品です。 

このように見てくると、オリヴィエ・メシアンの音楽とは、自らが収集した鳥の歌声を中心素材に、自らが収集した世界各地のリズムを使って、自らが信ずるカトリック教会に奉仕するために作った音楽であったことが分りります。しかし、それを演奏する人、聴く人がどう受け止めるかは別の問題です。パリ音楽院でメシアンから和声を学び、メシアンの良き理解者でもあるピール・ブーレーズは、『少なくとも私は、鳥に特別な魅力を感じることはないし、鳥の声が多用されているという理由で、メシアンの音楽に対する、私の見方が変わるなどとは考えて見たこともない。基礎となるアイディアを、最終的な音楽作品にまで発展させて行く技法、それこそがこの音楽家の素晴らしいところなのだ。』(注4)と語っており、メシアン自身も『私は、無神論者には、信仰について話している。朝四時に起きて鳥の目覚めの声を聞いた事のない人のためには、鳥について話している。私の音楽の中には沢山の色を取り入れているのだが、人々はそれを見ようとしない。私はリズミシャンなのだが、人々は、軍隊の行進の靴音とリズムとを混同しているようだ』(注5)と言っていて、彼の音楽が彼の意図通り受け止められていないことに心を痛めていたふしがあります。それでもメシアンは、終生、彼自身の音楽で語り続けました。八十才の誕生日を記念する演奏会で初演された「ステンドグラスと鳥たち」、また、八十三才で亡くなる一年前に作曲した大曲「彼方の閃光」というような最晩年の作品も、小鳥、多彩なリズムと色彩、そして敬虔な祈りという、三つの要素にしっかり支えられた作品となっています。 

二十世紀の音楽と聞くと、それだけで尻込みしてしまう人も少なくないようですが、そのような人達も、メシアンを聴けば、きっと私たちの時代の音楽に対する姿勢を改めて下さることになるでしょう。










(注1) ドイツ・グラモフォンCD POCG-1751/3 のリーフレットより
(注2) キガシラコウライウグイスという和名を使っている印刷物が多い。ニシコ       ウライウグイスは山階芳麿著「世界鳥類和名辞典」(大学書林)による。
(注3) カオグロヒタキという和名を使っている印刷物が多いが、学名からカオグ       ロサバクヒタキ(「世界鳥類和名辞典」)が正しいと考えられる。カオグ       ロヒタキという鳥は別にいて、学名は Ficedula tricolor である   
(注4、 5) MONTAIGNE CD MO 781111 のリーフレット Julie de La Bordonnie に
       よる英訳部分より著者訳出

第七章 ドイツ歌曲と鳥たち

第七章 ドイツ歌曲と鳥たち 

私は、歌曲の中の鳥たちには触れないでおくつもりでした。あまりにも数が多すぎるからです。でも、私にはドイツ・リートに特別な思い入れがあって、どうしても素通りできなくなってしまいました。それは、私のためにクラッシック音楽への入口の扉の役目をはたしてくれたのが、他でもな いドイツ・リートであったからです。私がのめり込んだころは、ドリードと呼ばれていましたが、最近はリートに統一されているようなので、私もそれにならって、リートと呼ぶ事にします。 

戦後、自分で作った「電蓄」で初めて聴いたドイツ・リートが、シャルル・パンゼラとアルフレッド・コルトーの、シューマンの「詩人の恋」でした。演奏者が二人ともフランス人で、演奏しているのがドイツ語の歌曲であったことなど、その時は気にもとめませんでした。このSPレコードは、使い古された表現ではありますが、本当に擦り切れるまで何度もかけて聴きました。丁度そのころ(一九五二年)、ドイツのバリトン歌手、ゲルハルト・ヒュッシュが来日し、得意のドイツ・リートを歌いました。すでに全盛期は過ぎていましたが、古くからのヒュッシュ・ファンが押しかけ、演奏会は大変な盛況であした。高校生の私には切符を買える余裕もなく、実際の演奏には接していませんが、これを機に私のドイツ・リート熱は急上昇しました。その来日時に、ヒュッシュは「白鳥の歌」を日本で録音し、それを以てヒュッシュのシューベルトの三大歌曲集の録音が完結しました。しかし、この記念すべき録音の「白鳥の歌」のレコードは、何故かすぐ市場から姿を消してしまい、久しく廃盤のままになっていました。長いこと、この時の音源によるヒュッシュの「白鳥の歌」を聴きたいものと願っていましたが、偶然このレコードのCD復刻盤を店頭で見つけ、自分の心臓の音が聞こえた位びっくりしました。早速購入して聴いてみましたが、モノーラル録音とはいえ充分観賞に耐える音質のディスクに仕上がっています。マンフレト・グルリットのピアノが弱いこととか、エリザベート・シュワルツコッフ、ディートッヒ・フィッシャー=ディースカウ、ヘルマン・プライ、ペーター・シュライヤー、等々の、その後続々と現われた優れた歌手達の、すっきりした現代的歌唱法とは明らかに違う、古典的ともいえる唱法に違和感を感じるとか、改めて聴いてみると新しい発見もありましたけれど、何よりも、一世を風靡した人の残した貴重な歌声のCDは、人の声が作りだす音楽の虜になっていった時代のことを私に思い出させてくれ、恩師に再会出来たような、とても幸せな気分にさせてくれました。 


シューマン 歌曲集「詩人の恋」作品四八 

私をクラシック音楽の世界に引き入れてくれた「詩人の恋」は、ハインリッヒ・ハイネの詩に三〇才のシューマンが曲を付けた、全一六曲の歌曲集です。全体を通しての物語は無く、一曲一曲が独立した歌曲です。それにしても、ドイツ語のドの字も分からなかった高校生の私が、何故ドイツ語で歌われる歌曲集「詩人の恋」にあれほど引き込まれたのでしょうか。私は、ずっと後になって、チャールス・オスボーンの解説を読んで、その答えを見つけたように思いました。 

『・・・・詩そのものは、真の翻訳は不可能である。英語に作り直されたハイネの言葉はすでに元の白さを失っている。私達は、ナイチンゲール、ばら、夢、そして夢見る人が、どのような意的変容を経てハイネの言語となっていったかを理解することはできない。私達は、ただ、シューマンがこれらの詩を完璧に理解し、彼自身の共感と叙情的天性をそれらに重ね合わせることができたことに感謝するしかない。』(英グラモフォン BLP1064 ジャケット解説、著者訳) 

「英語」を「日本語」に置き換えて見ても、此の言葉は全く正しいと思います。歌われている詩の意味が理解できなくても、人の声とピアノの二つの楽器による音楽として、一曲毎の歌ではなく、全体が一つのかたまりとなって響いてくる音楽として、私は「詩人の恋」を受け入れていたのです。 

「詩人の恋」では、
第一曲 「美しい五月に」        
    美しい五月に花は咲き、鳥は歌う、そして私の心にも恋が芽生える。
第二曲「涙はあふれ出て」     
    涙はあふれて花になり、ため息はナイチンゲールの歌となる。   
    君が愛してくれるなら、花を捧げよう、窓辺にナイチンゲールの歌を響かせよう。

と歌われていますが、花や小鳥はこの後も次々と登場して来ます。シューマンの歌曲で、題名に小鳥の名前がついているものとしては、歌曲集「子供のための歌のアルバム」から「みみずく」、「つばめ」、七つのリートから「元気でね、燕さん」等が思い出せますが、歌詞の中に小鳥が登場する曲となると、あまりにも多すぎて列挙することなどとても出来はしません。  


シューベルト 歌曲集「白鳥の歌」から「鳩の使い」(Die Taubenpost)       

シューベルト生誕二百年の一九九七年には、世界各地で記念音楽会が開催されました。日本でも一月早々に、現代最高のバリトン歌手の一人ヘルマン・プライを迎え、シューベルトの三大歌曲集を中心とするドイツ・リートのリサイタルが開催されました。まさに円熟の極みにあったヘルマン・プライは絶品といえるシューベルトを聴かせてくれましたが、年が変わると間もなく急逝してしまいましたので、日本でのリサイタルはプライの白鳥の歌ともなってしまいました。年末近くにペーター・シュライヤーによる三大歌曲集を聴く機会にも恵まれました。これもまた最高級のシューベルトでした。CDの世界でも、内田光子やアンドラーシュ・シフの素晴らしいピアノ曲が続々発売されて、シューベルト・ファンにとっては幸せな一年でした。 

シューベルトのリートにも、もちろん沢山の小鳥達が歌われていますが、ここでは若くして亡くなったこの作曲家の最晩年の作品、「鳩の使い」だけを取り上げることに致します。 

歌曲集「白鳥の歌」(Schwanengesang)と言う名称は、ハスリンガーが、シューベルトが亡くなった年の歌曲作品から一四曲を選び、翌年「シューベルト遺稿集」として出版する際に命名したもので、もちろんその意味するところはシューベルトの辞世の作品ということです。しかし、この一四曲以外にもこの年に作曲された作品があって、この歌曲集の中の最後の歌「鳩の使い」がシューベルトの最後の作品ということにはならないようです。ではどの曲が本当の辞世作なのかというと、これを特定するのがなかなか難しいのですが、研究者の間では、歌曲「岩の上の羊飼い」(D965)を一番最後の作品であるとする意見が有力なようです。「岩の上の羊飼い」が作曲されたのも「鳩の使い」と同じ一八二八年の十月であったと考えられますので、仮に「鳩の使い」が最後の曲ではなかったとしても、作品リストの最後尾に列なる作品であることだけは間違いありません。 

歌曲集「白鳥の歌」におさめられた歌はそれぞれ独立した歌曲で、全体を通しての筋とか物語性はありません。一四曲の内、最初の七曲がレルスターブの詩、続く六曲がハイネの詩によるもので、シューベルトはここまでの一三曲を一八二八年の八月に作曲、そして最後のザイドルの詩による「鳩の使い」を同じ年の十月に作曲して、その翌月に突然他界してしまいました。直接の死因は腸チフスとされていますが、死ぬまで毎日の生活に追われていて、栄養も充分には取れておらず、体力的に消耗していて腸チフスに耐えられなかった事が本当の死因であるとされています。後には手書き原稿の他には、金も、家具も、財産も、著書も全く何も残っていませんでした。シューベルトのたぐいまれな才能は、彼の死後四〇年もたってから初めて本当の意味で評価の対象とされるようになったのです。 

幸いにも、シューベルトの創作活動を飾る最後の作品は、「鳩の使い」であれ「岩の上の羊飼い」であれ、どちらも希望に充ちた、優しい明るい曲です。 


マーラー 「子供の不思議な角笛」から「高い知性への賛歌」   

歌曲の大半は、ピアノの伴奏による声楽曲ですが、オーケストラをバックに歌われる歌曲も少なくはありません。シューベルトの歌曲も、ピアノの部分がオーケストラ用に編曲された版で演奏されることもあります。マーラーの歌曲は、オーケストラと一緒に歌われるものが多いのですが、例えば「子供の不思議な角笛」のように、管弦楽の伴奏で歌われる場合が多いものでも、オリジナルはピアノ版であったものもあります。最近になって、オリジナルのピアノの版を重視する動きも出てきて、CDにもピアノ版のものも現われ始めています。「大地の歌」にもピアノの版がありましたが、このことが広く知られるようになったのは極く最近のことで、ピアノ版「大地の歌」が初演されたのは、作曲家の死からおよそ八〇年もたってからのことでした。しかもその世界初演はこの日本で行なわれました。マーラー未亡人のアルマは、いかなる事情からかは不明ですが、未出版楽譜をアメリカの知人に譲ってしまっていたため、ピアノ版「大地の歌」はついぞ出版の機会に恵まれることがありませんでした。従って、長い間「大地の歌」にピアノ版があったことは、少数の研究者を除いては知られていませんでしたが、八〇年代も後半に入ってから、所有者の申し出でがあって、このピアノ版「大地の歌」の楽譜が実在していたことが明かになりました。これが正式にマーラーの作品として認知され、演奏の対象となるためには楽譜が出版されなければなりません。その出版の労を取ったのが、国立音楽大学理事長の海老沢敏氏でした。ピアノ版「大地の歌」の世界初演は、一九八九年五月一五日、テノールのエスタ・ヴィンベルイ、アルトのマリヤーナ・リポフシェク、ピアノのウオルフガンク・サヴァリッシュによって、国立音楽大学大ホールで行なわれました。 

全一四曲からなる「子供の不思議な角笛」は、一八九二年から約一〇年かけて、歌曲集としてまとめられ完成したのは一九〇一年ということになっておりますが、実際にはこの「子供の不思議な角笛」の各曲は、マーラーの他の曲の中に様々な形で度々顏を覗かせており、マーラーの音楽は、どれもがこの「角笛」と深い関わりを持っています。 

その中の一曲「高い知性への賛歌」は、ロバを審判に迎えて歌唱コンテストをするカッコウとナイチンゲールの物語りです。ロバを審判に選んだのは、大きな二つの耳を持ったロバのことなので、必ずや音楽の判定能力も高かろうと思ってのことでしたが、いざ終って見ると、ロバは複雑なメロディーの歌を美しい声で巧みに歌ったナイチンゲールではなく、たった二音からなる単調なメロディーをくりかえしただけのカッコウに軍配を上げました。「私の高い知性にぴったりの歌唱であった」というのがロバ審判のコメントです。マーラーは子供の歌を通して、裏付けのない権威主義を痛烈に揶揄しています。 


リヒャルト・シュトラウス 「四つの最後の歌」から「夕映えのなかで」 

リヒャルト・シュトラウスの「四つの最後の歌」は、最初から女声とオーケストラの為に書かれた歌曲で、ピアノ伴奏版はありません。 

リヒャルト・シュトラウスはマーラーよりは四才年下で、十九世紀末には既に広く名前の知られた作曲家となっていましたが、長命であったこともあり、晩年はナチスに協力した芸術家の一人となりました。昭和十五年(一九四〇年)、当時の軍国日本は、日本の国歴の古さを誇示しようという意図もあって、神武天皇の即位を以て紀元元年とする、日本の皇紀による紀元二千六百年を祝賀する式典を挙行しましたが、その時に海外の著名作曲家に奉祝曲の作曲を委嘱しています。リヒャルト・シュトラウスの「祝典音楽(日本建国二六〇〇年祝典曲)作品八四」はその時の委嘱作品で、ナチスドイツの友好国であった日本の昭和天皇に捧げられました。リヒャルト・シュトラウスは、自らバイエルン国立歌劇場管弦楽団を指揮してこの曲を録音しています。皇紀二六〇〇年奉祝演奏会には、シュトラウスの他に、フランスのジャック・イベール、イタリアのイルデブラント・ピツェッティ、ハンガリーのシャンドール・ヴェレッシュ、イギリスのベンジャミン・ブリテンといった作曲家が作品を寄せていますが、ブリテンの曲は「鎮魂交響曲(シンフォニア・ダ・レクイエム)」と題されていたところから、それが天皇への意図的な侮辱であると見なされ、ブリテンは日本の政府から厳重な抗議を受ける結果となりました。もちろん奉祝演奏会での演奏も認められませんでした。この曲が日本で初演されたのは、戦争も終わってだいぶたった一九五六年のことで、作曲者自身がN響を指揮するために来日していますが、この時に日本で観たお能の「隅田川」が、ブリテンに「カリュー・リヴァー」を作曲させる動機を提供したというめぐり合わせに興味を覚えます。 

「四つの最後の歌」はリヒャルト・シュトラウスの最晩年、一九四八年の作品で、「最後の」という文字は作曲者の死後彼の友人により書き加えられたものです。タイトルの通り曲は四曲からなり、最初の「春」「九月」「眠りにつこうとして」の三つはヘッセの詩によるものですが、最後の「夕映えのなかで」はアイヒェンドルフの詩が使われています。八四才の老作曲家は、「夕映えのなかで」に描かれている、夕陽に輝く天空に舞い上り消えてゆく二羽のひばりに自分の生命を託したかのように、安らかな死と、その後の魂の平安を予感させてくれるような素晴らしい音楽をつけてくれました。この「四つの最後の歌」は、シュトラウスの死後の一九五〇年、フラグスタートの独唱、フルトヴェングラーの指揮でロンドンで初演されました。









(注1)英グラモフォン BLP1064 ジャケット解説 著者訳

第六章 あひる、鵞鳥、はと

第六章 あひる、鵞鳥、そして鳩 


プロコフィエフ 「ピーターと狼」 ー 小鳥とあひる 

プロコフィエフは音楽的には大変早熟な人で、九才の時にはすでに「巨人」と題する子供用オペラを作曲しています。一一才にして早くもラインホールド・グリエールに付いて体系的に、そして専門的に音楽の勉強を始め、一三才でサンクトペテルブルグ音楽院に入学を認められています。以後一〇年間そこで一貫教育を受け、ピアノ、作曲の両部門を卒業する時には、アントン・ルービンシュタイン賞(優等賞)を受賞しました。卒業演奏会では自作のピアノ協奏曲第一番を演奏しています。 

子供のための音楽おとぎ話し「ピーターと狼」が作曲されたのは、一九三六年プロコフィエフが四五才の時で、一時パリに居を構え、ディアギレフのロシア・バレエ団と一緒に仕ことをしていたプロコフィエフが、モスクワに戻り、積極的に祖国のために音楽を書き始めたころの作品です。(プロコフィエフの思いとは裏腹に、祖国ソヴィエトの音楽界はプロコフィエフを、退廃音楽に手を染めた作曲家として告発し続けるのですが。)物語自体もプロコフィエフが自分で書きました。 

この音楽おとぎ話しは、言葉によるナレーションに続いて音楽が演奏され、言葉と音楽とで二度同じ物語が語られる仕組みになっています。主人公のピーターは弦楽四重奏、小鳥はフルート、あひるはオーボエ、猫はクラリネット、お爺さんはバスーン、狼が三本のホルン、猟師がティンパニとバスドラム、というように、物語の登場人物毎に楽器が振り当てられていて、鳴っている楽器により、今、どのキャラクターが活躍しているのかが子供にもよく解かる仕組みになっています。子供用音楽教材として使用されることを意識して作られた作品ですが、十二分にその目的にかなったものに仕上がっていて、今や世界中で、子供を対象とする音楽会のスタンダード・プログラムとなっています。大人が聴いても結構楽しい音楽劇ですし、いろいろな国の言葉によるナレーションのCDが出ていますので、違う言葉のナレーションのCDをいろいろ聴いてみるのも一つの楽しみ方かも知れません。 

アヒルもニワトリと同じ家禽、つまり、人間によって飼い馴らされた鳥で、先祖はガンカモ科(Anser, Anas)の鳥です。しかし、多様化しなかったのは、人間にとっての利用価値が、ニワトリ程は高くなかったからなのでしょう。たしかにアヒルが今以上に上手に鳴けるようになるとは思えませんし、闘争心もニワトリほど旺盛ではないので、喧嘩鳥としても使えそうもありません。産卵量もニワトリにはかないません。愛嬌があって可愛いけれど、人間が作り出した動物の中ではあまり利用価値の高くない動物ということになってしまうのではないでしょうか。 


ラヴェル バレエ音楽「マ・メール・ロア」 ー 鵞鳥 

モーリス・ラヴェルは今世紀前半に活躍したフランスの奇才で、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の編曲や「ダフニスとクロエ」「ボレロ」といった管弦楽の作品を通して広くその名が知られていますが、実際には、ピアノ曲や室内楽に優れた作品を沢山残しています。 

「マ・メール・ロア」という題名は、シャルル・ペローの、一七世紀のおとぎ話しを集めた Contes de ma Mere l'Oye〈私のマザー・グースのお話〉によるもので、いわばフランス版マザー・グースです。一九〇八年から一九一〇年頃にかけて、ラヴェルは「マ・メール・ロア」から五つの物語を選んでピアノ連弾曲を作曲しましたが、すぐ、それを管弦楽用に編曲した上で順序を組み替え、間奏曲を加え、さらに前奏曲と序奏部分を書き加えてバレエ用の音楽に作り変えました。バレエ「マ・メール・ロア」は一九一二年一月に芸術劇場で初演されております。「マ・メール・ロア」の個々の話しを、連続夢物語の形で「眠りの森の美女」の話しの順序につなぎ合わせる工夫がなされていますが、これはラヴェル自身の考案によるものです。バレエ音楽は、その後組曲にもまとめられています。 

「マ・メール・ロア」は題名がマザーグースであると言うだけで、鵞鳥は登場しません。出てくる鳥は、道しるべ代わりに小人がまいておいたパン屑を食べてしまう小鳥だけです。 

ところで、西洋人は一般的にラヴェルの「ボレロ」が大変好きなようです。限られた私の経験だけから断定的な物言いをすることは避けるべきとも思いますが、それでも「ボレロ」が演奏されると会場には異様な雰囲気が充満し、曲が終わると半狂乱に近い人が出現するという現象は日本ではあまり目にしたことがないので、やはり、西洋人にはこの曲に特に強く反応する「何か」があるように思えてなりません。昔、私がそのことを話題に持ち出した時に、私の友人の一人であるイギリス人の女性は「ボレロはセクシーな曲だ」と言いました。パブで酒を飲みながらの話しであったからか、それに同調した男性の友人は「少しずつ、少しずつ盛り上がってゆくあの音楽は、女性がエクスタシィを追求してゆく過程そのものなのではないか」というようなことを言いました。女性の友人がその言葉に敢て異を唱えることをしなかったので、あるいはそうなのかも知れないとその時は思いました。しかし、それならば日本にも女性はいるのに、とも思います。 

一九八四年、サラエボに於ける冬季オリンピックのアイスダンスで、金メダルを獲得したのはイギリスのジェーン・トービルとクリストファ・ディーンのカップルでした。芸術点の審査ではジャッジの全員が満点を付けたくらいの素晴らしい演技でしたが、彼らが使用した音楽がボレロであったことも極めて印象的でした。 


シェーンベルク 「グレの歌」 ー  山鳩 (森の鳩) 

私は、第三章「ナイチンゲール」のところで、ストラヴィンスキーにふれ、彼が二〇世紀を代表する作曲界の巨星の一つであったと書きました。ストラヴィンスキーを巨星と呼んだ以上、二〇世紀のもう一つの巨星、シェーンベルクにふれないわけにはいきません。この二人の後に現われ、優れた作品を残した、あるいは残している作曲家達も、自分の進路を定める上で、何らかの形で二人の影響を受けたはずで、やはりストラヴィンスキーとシェーンベルクの存在は偉大であったと思います。 

ストラヴィンスキーは、礼儀正しいことが美しいことであった時代に荒々しい蛮人の音楽を持ち込み、音楽に健康さと新鮮さを取り戻させることに成功しました。馴れ親しんだロマン派の音楽の殻を破って突き抜ければ、そこに新しい音楽の世界が開けることを万人に示したのです。しかしストラヴィンスキーがその後たどった道は、バーバリズムの展開ではありませんでした。ストラヴィンスキーが「春の祭典」を投げ込むことで手にしたものは、複雑な語法を簡素化し、音楽をもっと根源的な形に還元するための出発点でした。「春の祭典」は「ご破算で願いましては」の役割を果したのです。ストラヴィンスキーの古典への回帰はそこから始まっています。 

一方のシェーンベルクは、ロマン派の巨人ワーグナーの半音階主義を更におしすすめ、ついにはロマン派からも脱却して一二音技法を確立し、無調構成の音楽を作り出すという方向に進みました。つまり、ストラヴィンスキーがすでに複雑すぎると感じた語法を、更に発展させる方向にシェーンベルクは進んでいったのです。その音楽は、従って、大変複雑かつ難解であるといわれています。一二音技法とは、独立した、しかも個々に互いに連係しあうことが可能な一二の音を使って作曲する技法のことで、この技法によって作られた音楽が一二音音楽です。一二音音楽のアイデアは一人シェーンベルクだけのものではありませんでしたが、一二の音の基本的な並べ方と、そのフォームの変換の仕方を確立したのはシェーンベルクの功績です。(注1) 

シェーンベルク派の旗手ルネ・レーボヴィッツは『(シェーンベルクの)音楽はむずかしいきわめて複雑なもので、その意味は、普通音楽に与えられている意味をはるかに越えている。実際、シェーンベルクの貢献は外面からだけ考えられやすいが、それでは彼の貢献の本質は全部見のがされてしまう。シェーンベルクの名前が出るやいなや、無調性とか一二音技法とか不協和音などについて語られるだけで、このような諸様相をもつ技術が、音楽史を通じて稀有の作曲上の急進主義に帰結するものであることは忘れられる(原因ではなく結果である)。だが作品のなかに含められているものは、なによりもまず、特異な力量と独創性によって《音楽を考える》その方法なのだ。この音楽的思考の厳しさによって、作曲の過程自体が、変革されると同時に深く掘り下げられた。』(注2)と書いており、音楽を深く考えれば考えるほど、それを表現する手段として複雑な技法も使わなければならず、結果的に難しい音楽になってしまうのだと言っているように受け取れます。しかし、シェーンベルクの音楽を解析したり演奏したりするには、素人には解からない難しさがあるのかの知れませんが、音となって耳に届く音楽が特に難解な音楽であるようには私には思えません。「浄夜」や「グレの歌」のような初期の調性に基づいた音楽はもちろん、「月に憑かれたピエロ」のような無調の音楽も、みんな美しい、優しい音楽です。 

「グレの歌」は独唱、合唱を伴うオーケストラ曲で、物語が語られるているところから形式的にはオラトリオの部類に属すると言えますが、音楽的構造は交響曲の技法によっており、劇的構造はオペラによっているところから、〈劇的交響曲〉とよぶのが一番ふさわしいように思います。 

少女トーヴェとグレの城の王ヴァルデマルの恋、トーヴェの死、ヴァルデマル王の苦悩と怨念、魂の救済、という内容の物語は、デンマークの城グレの伝説に基づくもので、ペーター・ヤコブセンの詩による物語が壮大な音楽に乗って語られます。(テキストにはロベルト・フランツ・アルノルトのドイツ語訳が使用されています。)物語の中で、少女トーヴェの死は山鳩によって伝えられます。山鳩は「ヘルヴィヒの鷹がグレの鳩を八裂きにした」と悲しげに歌い、ヴァルデマル王に愛されていた少女トーヴェリーレ(可愛い鳩)が、嫉妬深い王女ヘルヴィヒによって殺されたことを知らせます。 

「グレの歌」の特筆すべき特徴の一つは、演奏に要する演奏者の数で、オーケストラは、ピッコロ四、フルート四、オーボエ三、イングリッシュ・ホルン二、イ調または変ロ調のクラリネット三、変ホ調のクラリネット二、バス・クラリネット二、バスーン三、コントラバスーン二、ホルン一〇(時々四本のワーグナーテューバと持ち変え)、トランペット六、バス・トランペット一、アルト・トロンボーン一、テノール・トロンボーン四、バス・トロンボーン一、コントラバス・トロンボーン一、(テューバ一、)ティンパニ六、テノール・ドラム、各種シンバル、トライアングル、グロッケンシュピール、サイド・ドラムとバス・ドラム、(タンバリン、)木琴、タムタム、(鉄鎖、)ハープ四、チェレスタ、第一ヴァイオリン二〇、第二ヴァイオリン二〇、ヴィオラ一六、チェロ一六、コントラバス一二、という編成で、これだけでも約一五〇人、それに独唱者と語り手の計六人、更に三組の男声四部合唱と混声八部合唱からなる合唱団が加わるわると、総勢は悠に二百人を越える大編成で、その規模たるやまさに横綱級といえます。全員がステージの上に上るだけでも大変です。シェーンベルクは「グレの歌」のスコアを作成するにあたって、四八段の五線紙を特注しなければなりませんでした。四八もの違う音が同時に鳴り響く音楽を作るという作業がいかに大変な作業なのかは、ただ想像するしかありませんが、その音のかたまりの中に身をまかせる快感は、聴く人すべててに与えられた特権です。 


ドヴォルザーク 交響詩「野鳩」 

ドヴォルザークは、一八四一年にボヘミアの寒村ネラホゼベスに生まれました。スメタナが確立させたボヘミアの音楽を、世界的に普及させる上で重要な役割をはたしたチェコの作曲家です。一八七四年、プラハでスメタナの指揮によりドヴォルザークの作品一〇の変ホ長調の交響曲(第三番)が演奏されて評判になりましたが、彼がヨーロッパ作曲界で広く知られるようになったのは、翌一八七五年にオーストリア政府の作曲賞に入賞、続いて一八七七年には更に二作品が入賞を果たしてからのことです。このオーストリア政府賞は、ヘルベック、ハンスリック、ブラームスというような、そうそうたるメンバーがその審査に当たるレベルの高いコンテストで、そこで、二度にわたり三作品もの入賞を果たしたというだけでも、ドヴォルザークの才能がいかに秀でたものであったかが分ります。特にブラームスはドヴォルザークを高く評価し、コンテスト以後も、楽譜を出版するための出版社を紹介したり、何かと彼の面倒をみるようになりました。ブラームスは、こと音楽に関する限り同業者には極めて辛辣であったと伝えられていますが、ドヴォルザークに対してだけは例外であったようです。ドヴォルザークは、ブラームスの紹介で彼の曲を出版してくれるようになったジムロックに、『「ブラームスは私と知り合ったことを喜んでくれているように見えます。芸術家、そして人間として、私は彼の親切に圧倒され、彼を敬愛せずにはいられません。あの人は何と暖かい心と偉大な精神を持っていることでしょう。少なくとも彼の作品に関するかぎり、彼は親友にさえ距離を置くのに、私に対してはそうではありませんでした。」』(注3)と話しています。 

名前が知られるようになったのは三〇才を過ぎた後で、ドヴォルザークは決して早咲きの作曲家ではありませんが、ジムロックの手でドヴォルザークの楽譜が出版され始めると、たちまちのうちにヨーロッパにおける屈指の人気作曲家となりました。一般大衆のみならず、ハンス・フォン・ビューローも、ドイツの批評家ルイス・エーレルトも、一様に新しい才能の登場を最大限の賛辞をもって受け入れています。そして、以後今日まで、ドヴォルザークはその作品が常時演奏される作曲家であり続けています。 ところが、ドヴォルザークの音楽は「田舎臭く、野暮ったく、洗練度に欠け、知性的でない」として、一流とは認めようとしない音楽愛好家も少なくありません。事実ドヴォルザークと言う人は、『晩年、彼は時々思い立つと、入門書を読んで 教養を高め ようとした』(注4)知性的という表現は当て嵌めようのない人物であったようです。ボヘミアの寒村に生まれたドヴォルザーク自身が、洗練にどれほどの意味を認めていたかも分りません。しかし彼は音楽家でした。それも深く民族意識に根ざした音楽家でした。そして何よりも特筆されなければならないことは、彼が心身共に極めて健康な普通人であったと言うことです。だからこそ彼は健康的で力強く、純粋で透明な音楽を作り続けることができたのです。ショーンバーグは、『全創作期間を通じ、彼は後期ロマン派中で最も幸福な人間であり、ノイローゼ的要素が最も少ない作曲家であった。「神、愛、母国」が彼のモットーだった。ブラームスは絶望的な憂鬱感を経験し、チャイコフスキーのノイローゼは、途方もないほどひどかった。マーラーのノイローゼは、それに比べればチャイコフスキーのノイローゼが健康的に見えるほどで、マーラーは胸をたたき、髪の毛をかきむしった(その一方、後世の評価がどうなるかと、横目を使っていたが)。ブルックナーは座って震えながら神の啓示を待った神秘家であり、エリザベス時代的な意味での自然主義者であった。ワーグナーはひねくれたエゴイストであり、リストは複雑で矛盾に満ちた天才だが、いかさまのイエズス会牧師だった。ひとりドヴォルザークだけが、単純で屈折のない道を進んだのであり、彼はヘンデル、ハイドンと並んで、あらゆる作曲家中で最も健全な作曲家である。』(注5)と書いていますが、全く同感です。 

一八九二年、ドヴォルザークは請われてアメリカに渡り、ニューヨークのナショナル音楽院の院長に就任しました。ドヴォルザークに白羽の矢がたったのは、ナショナル音楽院の創立に力のあったジャネット・サーバー女史が、かねてから、アメリカに新国民楽派を作りたいと考えていて、彼女が、ほとんど全ての作品に民族主義を体現しているドヴォルザークこそが新国民楽派を目指すアメリカの作曲家が手本とすべき格好の実例と考えたからでした。サーバー夫人の期待にたがわず、ドヴォルザークは滞米中の三年間、アメリカ風民族音楽の創造を提唱し続けました。彼のアイディアは、彼自身が、ハーパー社の「New Monthly Magazine」(一八九五年二月号)に寄せた「アメリカの音楽(Music in America)」に明確に記されています。彼は「アメリカは尽力してきているほとんど全ての分野でまさに驚嘆と呼べるものを手中にしてきているが、こと音楽に関する限りヨーロッパの音楽のへたな模倣に甘んじていて、目指している方向が反対であることは疑う余地が無いと」し、これを正すために成すべきこととして、ニグロとインディアンのメロディーに立脚した、アメリカ的スタイルを育成することであると力説しています。 

ドヴォルザークがアメリカ滞在中に作曲した、第九番(旧称五番)の交響曲「新世界より」の中にも、黒人霊歌のメロディーの断片とかアメリカ・インディアンの音楽を連想させるようなメロディーがちりばめられています。しかしながら、アメリカ風の素材が使われているとはいうものの曲自体は明かにボヘミア風音楽で、これがアメリカ楽派の見本的扱いを受けることがもたらす混乱を危惧してか、ドヴォルザーク自身もこれには格別アメリカ的な要素は含まれていないと主張しています。 

ニューヨークのような都会は、ドヴォルザークにとって決して住みやすい場所ではなかったようです。職務上ニューヨークに居を構えてはいたものの、休暇は必ずアイオワ州の深い森に包まれたスピルヴィルへ行って過ごしました。スピルヴィルはチェコからの移民の町でした。ドヴォルザークは、そこでつのる望郷の想いを癒していたのです。 

交響詩「野鳩」は、ドヴォルザークがアメリカから帰国した後の一八九七年に、祖国チェコの国民的詩人エルベンの詩集「花束」に触発されて作曲したものです。詩集「花束」からインスピレーションを得て作曲した交響詩「野鳩」となれば、ほのぼのとした牧歌的な曲を期待してしまうのが普通ですが、実際には、夫を毒殺して若い男と結婚した女が、夫の墓の樫の木に巣を作った野鳩が悲しげに鳴くのを聞くうちに、次第に良心の呵責に耐えられなくなり、ついには自殺をしてしまうという、何とも生々しい、そして暗い内容の曲なのです。曲は夫の葬儀の場から始まりますが、冒頭で曲全体のベースとなるモチーフが提示されます。そのモチーフの展開がそのまま曲の展開になっていて、間に野鳩の羽音を思わせるような弦楽器や、鳴き声を思わせるような響きが効果的に配されています。 


レスピーギ 組曲「鳥」 ー 鳩 

組曲「鳥」の中で残ったのは鳩だけになっていました。レスピーギの、組曲「鳥」のそれぞれにはもとうたがあることは既に紹介してきた通りですが、この「鳩」のもとうたは、一六八五年頃亡くなったジャック・デ・ガロと言う人によるものです。 

鳩という鳥は、地域によって受け入れられ方が極端に違う鳥で、日本では、ドバトの糞公害は別として、平和のシンボルというように比較的よいイメージで受け入れられていますが、欧米では地域によっては気難しくて、浮気っぽく、可愛くない鳥というイメージが定着しているところもあります。幸いレスピーギの「鳩」はあたたかい声で鳴く優雅な鳥として描かれていて、鳴き声にはオーボエが使われています。 

日本で見かける鳩としては、ドバト、キジバトが圧倒的に多く、続いてアオバトということになるのでしょうか。ドバトはカワラバト(Columba livia)から愛玩用、伝書用、レース用等の目的で家禽化されたものが再野生化したもので、市街地、神社、寺院、駅舎でよく見られます。キジバト(Streptopelia orientalis)も、留鳥として日本全国に分布しています。平地から山地の林を好みますが、市街地でも樹木のあるところならば見ることができるので、環境適応力は比較的旺盛な鳥と言えます。ドバトよりは丸い感じで、全体がぶどう色をしていて、うろこ模様がきれいです。アオバト(Sphenurus sieboldii)も決して数は少ないわけではありませんが、よく茂った広葉樹林におとなしく暮らしていますので、見つけようと思って見ないとあまり目にはつきません。身体は薄緑で、羽根はワイン色をしています。コシラバト(Streptopelia decaocto)は、グレーの身体で首筋に黒い線の入った鳩で、関東地方のごく限られた地域に棲息しています。この鳩は、ヨーロッパでは、一九三〇年頃まではバルカン半島の一部に棲息しているにすぎなかったのですが、その後約四〇年の間にヨーロッパ全域にその分布が広がり、イギリスでは一九五五年頃まではあまり見かけない種類でしたが、今や英国全土何処でも見られるばかりでなく、鳩の仲間のなかでも固体密度の高い種類となっています。カラー・ドーヴと呼ばれるこの鳩は、どうやら他の鳥では埋められない隙間を上手に見つけ出したようで、ヨーロッパでは繁殖面でのサクセス・ストーリーの主人公となりました。そのようなわけで、今は関東地方の一部、埼玉県越谷の近辺でしか見られないこの鳥も、何かのきっけで日本中にその分布が広がるようになるかも知れません。









(注1) The Concise Baker's Biographical Dictionary of Musicians
(注2) レーボヴィッツ著、船山隆訳「シェーンベルク」 白水社
(注3、 4、5)ショーンバーグ著、亀井旭・玉木裕訳「大作曲家の生涯」共同通信社      
 

第五章 からす

第五章 からす 

一般的には、からすは嫌われ者です。かつては、    

    からす、なぜなくの    
    からすはやまに    
    かわいいななつのこがあるからよ        

    やまのふるすへ    
    きてみてごらん    
    まあるいめをしたいいこだよ     

    かわい、かわい、とからすはなくの    
    かわい、かわい、となくんだよ

という童謡が、そんなに嘘っぽく聞こえなかった時代もありましたが、今は、からすが七つの子が可愛いと鳴いていると言っていられるほど悠長な時代ではなくなってしまいました。都会にはからすが増え過ぎ様々な問題を引き起こしています。 

しかし、都会で増えて来ているからすは主としてハシブトガラス(Corvus macrorhynchos) という種類のもので、この一種類のからすにカラス科の鳥すべてを代表させてしまっては、からすが可哀相です。ハシブトガラスによく似た、くちばしが少しスマートなハシボソガラス(Corvus corone) という種類は、都会よりも農耕地、川原、海岸の方が好きなようです。鳴く時もハシブトのような威張ったふりをせず、頭を下げてお辞儀をするような姿勢を繰り返します。ハシブトもハシボソも夜は一定の森を群れでねぐらとします。 

日本全国のほぼ何処でも見ることのできるカケス(Garrulus glandarius)もからすの仲間です。身体全体はぶどう色で頭はゴマシオ、羽根を広げると鮮やかな青色が目立つという中々お洒落なからすです。英国ではこの鳥は Jay と呼ばれていますが、その名の通り「ジェーイ」と鳴きます。つまり、日本のカケスも英語で鳴くのです。中々やるではありませんか。また、この鳥は他の鳥の鳴き声を真似るのも上手なので、鳥の鳴き声の録音をする時などは、用心しないととんでもない似せ声をつかまされることになります。 

若狭湾と伊勢湾を結んだあたりから北の本州に広く分布しているオナガ(Cyanopica cyana)もからすです。頭は黒く、頬からのどのあたりが白、それが腹から背中にかけて少しづつ灰色になじんでゆきます。そして羽根と長い尾は青というように、見た目は美しい鳥ですが、鳴き声はギェー・グェーと誠にうるく、群れをなして移動する習性がありますので、一団が飛来すると何事かと思うほどにぎやかです。  

  かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける  中納言家持

と百人一首の歌にも詠まれているカササギ(Pica pica)もからすですが、日本では九州北部にしか棲んでいません。一歩海を越えて大陸に渡れば、日本海沿岸から大西洋沿岸、英国に至るまで続く広い地域に分布しているのに、日本海で隔てられた本州、四国、北海道には棲んでいません。一方、カケスは大陸に於てもカササギとほぼ同様の地域に分布していて、日本海を越えた本州にも北海道にも棲んでいます。非常に近い種類の鳥なのに不思議なことです。カササギは良く見ると緑色や紫色が混じっていて、中々複雑な色合いをしているのですが、一寸目には白と黒の二色の鳥に見えます。鳩よりは一まわり大型で精悍な感じの鳥です。 

からすには一般的にいって美声の持ち主はいません。かのマリア・カラスとて例外ではなく、「ベルカント・クオリティーを欠いた声」(注1)の持ち主で、「技術的に、コロラテユーラは欠陥だらけ」(注2)と言われ続けました。「もし、オルガスムが歌う事ができれば、マリア・カラスの様にうたうだろう」(注3)というような、とてつもないコメントすら残っています。しかし、彼女の舞台で役柄の人物を作り上げる才能は非凡なもので、オペラ歌手としてのマリア・カラスはとにかく立派でした。彼女ほどのドラマティックなソプラノは、これからもそうそう出て来るとは思えません。今は残されている録音からしか彼女を偲ぶことはできませんが、例えば、帝王になる前の若いカラヤンが指揮したベルリン市立歌劇場でのライヴ、「ルチア」の狂乱の場などには恐ろしいほどの凄さがあります。激して喧嘩をし、ステージを途中で放棄したり、出演予定の舞台を完全にすっぽかしたりと、とかく問題の多かった歌手で、海運王のアリストテル・オナシスとの結婚とか、それに続くオナシス夫人の座をめぐってのジャクリーヌ・ケネディとの軋轢を含め、私生活もゴシップにまみれたものでした。そんなこともあってかマリア・カラスを手放しで褒めることには抵抗があるようで、彼女に関するコメントには酷な物も少なくありません。しかし、マリア・カラスの歌は、アクメの叫び声のようだとか、「冗談めかして言うならば、彼女は肉欲の権化であった」(注4)とか音楽辞典に書かれてしまうカラスに私は同情を禁じ得ません。 


シューベルト 歌曲集「冬の旅」から第十五曲「鴉」 

シューベルトやシューマンに限らず、詩に曲をつけた歌曲には鳥が度々あらわれますので、それら全てを網羅しようとすると手に負えない作業になってしまいます。できれば歌曲の中の鳥は避けて通りたいところです。それにもかかわらず、ここで歌曲集「冬の旅」に登場してもらったのは、実は「からす」はあまり音楽の中には出て来ない鳥で、ずばり「鴉」と題した曲としてはこれしか思い当たらなかったからなのです。 

からすと言う名前からイメージする鳥は「黒い鳥」で、その色は即「不吉」を連想させます。これが、からすがあまり音楽の中に登場し得ない理由なのではないでしょうか。このシューベルトの「鴉」も暗く、そして不吉です。    

    鴉が一羽一緒に     
    町から随いて来た。     
    今日までずっと     
    頭のまわりを飛んでいる。     

    鴉よ、変わった動物よ、     
    僕を見捨てようとはしないのか?     
    やがてここで僕の身体を     
    餌食にしようと思っているのか?     

    よし、もうこれ以上さすらいの     
    この杖にすがって行くことはない。     
    鴉よ、いよいよ墓に入る時まで     
    誠実さを僕に示してくれ!               

              (注 石井不二雄訳 Claves CD 50-8008/9 解説より)

シューベルトは貧しい家庭に生まれ、貧しい生涯を送り、そして、貧しいままに世を去りました。従って、彼は財産と称するものを持ったことがありませんでした。ほんの少々でも余裕があれば、より有利な条件で曲を出版することも可能ではあったはずなのですが、シューベルトとしては、今日を生きる為の金を優先させざるを得ず、必要以上に譲歩を余儀なくされて、みすみす安い価格で名曲の数々を手放さざるを得ませんでした。当時のウィーンの通貨グルデンというのが、現在の価値でどの位のものなのかは知りませんが、「さすらい人幻想曲」を出版したカッピ・ウント・ディアベリ社が、その後四〇年間にあげた純益は、この曲一曲だけで二万七千グルデンにのぼるといわれていますが、シューベルトがこの曲の代価として受け取った印税は、わずかの二〇グルデンであったそうです。(注5)

曲の安売りにまつわる話はこれだけではありませんが、楽譜出版の全てを知り尽くした出版社と、世間知らずの芸術家との交渉では、勝負は最初から決まっていたようなものでした。常に金の無い生活を強いられていただけに、瞬間的に多少のまとまった金を手にしたような時、それを享楽の巷できれいさっぱり使い果たすことに快感を覚えたりもしたのかも知れません。彼のまわりにはそれを助けるようなボヘミアンの友人も少なくありませんでした。二〇代後半の内気な青年には、自ら進んで邪道に足を踏み入れる程の勇気も無かった反面、そのような誘惑に打ち勝つだけの自制力もありませんでした。その結果、一八二三年には公表を憚るような病魔に見舞われ、一時は頭髪を失うほどまでに病気が進行しました。一八二四年に入ってかつらが不要なところまで回復はしましたが、この病気がシューベルトをして厭世的な方向に向かわせる原因となったことは明らかです。 

歌曲集「冬の旅」は一八二七年、三〇才の時の作品で、シューベルトはその翌年にはこの世を去っています。早世の作曲家といえばモーツァルトということになっていますが、シューベルトはモーツァルトよりも更に薄命でした。一八二三年に貧困と病苦に苦しみながら歌曲集「美しい水車屋の娘」を作曲しましたが、ここではウイルヘルム・ミュラーの詩が使用されています。シューベルトは一度もミュラーと対面したことはありませんでしたが、憧れ、さすらい、孤独、憂愁、というような主題を好んで使うこの詩人に、自分の分身を見い出していました。そして、一八二七年に同じ詩人の連作詩「冬の旅」を読んだシューベルトは、絶望と共に歩む「冬の旅」の主人公に自分自身を重ねあわせ、悲痛なまでの感動を覚えたのです。頭痛と闘いながら作曲は進められ、春までに大半が完成、秋にグラーツへの旅から帰った後一気に後半の残りを作り終えました。シューベルトは自信をもって友人達に「冬の旅」を歌って聞かせましたが、集まった人達は、あまりの暗さに言葉を失い、中の一人がただ「菩提樹がいいね」と言っただけであったということです。しかし、その時シューベルトが「自分はこの全部の歌が他の何れよりも好きで、君たちも今に好きになるだろう」と言った通り、宮廷歌劇場歌手のミヒャエル・フォーグルの努力もあって、次第にこの歌曲集の真価が認められるようになって行きました。フォーグルはシューベルトより二九才も年長で、普段の付合は無かったものの、シューベルトの歌曲の良き理解者で、作曲者の死後も機会あるたびにシューベルトを歌い続けました。シューベルトが亡くなってからすでに一〇年以上過ぎた一八三九年、そして、それはフォーグル自身の死の一年前のことでしたが、最早足腰も不自由になったこの老歌手は、ミニ・シューベルティアーデを開催し、そこで「冬の旅」を絶唱しました。集まった人々は皆涙を流して聴き入ったと伝えられています。 

「冬の旅」は、失意のうちに放浪の旅に出る、孤独な青年の物語です。恋に破れた青年というだけで、その他の身分的詳細は一切語られていません。それ故に、主人公の憂うつ、苦悩、諦観が、物語の枠を越えて、聴く人の中にある潜在的な同種の感情と同化し、深い感動を呼び起こします。 

歌曲集が終盤に向かうあたりで歌われる「鴉」では、やがて自分をついばむかも知れないからすに、「私を見捨てないのはお前だけだ。お前の意図が何であれ、構いはしない。最後まで、ずっと随いてきておくれ」と語りかけずにはいられない青年の孤独、そして諦念が歌われています。ここでの、「鴉よ、風変わりな動物よ(Krahe, wunderliches Tier)」と言う呼びかけは、最終曲では、からすではなく、乞食に向かって発せられます。「風変わりな老人よ(Wunderlicher Alter)、私はあなたと一緒に旅する事になるのだろうか。あなたは、私の歌に合わせて、手回し楽器(ライアー)を回し続けてくれるのだろうか」。 

相寄る魂を求める孤独な心の叫びは、孤独である事を余儀なくされている現代人の心に深くしみ入り、共感を呼びおこします。 



ロッシーニ 歌劇「泥棒かささぎ」(La gazza ladra)序曲 

カササギは英国ではマグパイ(Magpie)と呼ばれ、古くから縁起の悪い鳥とされていて、面白い迷信も受け継がれてきています。マグパイに出会った時、その鳥が一羽だけしかいなかった場合には見た人に悲しみがもたらされると言います。不幸にして一羽しか見ることが出来なかった場合、もたらされるはずの悲しみから逃れるためには、先ず、胸に十字を切ってから、帽子を取って鳥の方に向け、帽子を被っていない時は右肩越しに三度唾を吐いてから、「悪魔、悪魔、お前なんか知らないよ」と唱えると良いとされています。イギリスの悪魔が英語しか分からないと、日本語で言っても通じないので、このおまじないは、英語では Devil, Devil, I defy thee と言うことを明記しておきましょう。ただし、路上で肩越しに唾を吐いて警察のお世話になっても、それから逃れるおまじないは私は知りません。 

カササギの学名は PICA PICA です。その名の通り、この鳥はピカピカ光るものがお好きなようです。ロッシーニの歌劇「泥棒かささぎ」も、かささぎが銀の食器をくわえて自分の巣に運んだり、少女の手から銀貨を盗んでいったりという話をもとに作られた喜歌劇ですが、昨今、歌劇全体が上演されたという話しはほとんど耳にしません。序曲だけは今でも演奏される機会は少なくないようです。










(注1ー4)The Concise Baker's Biographical Dictionary of Musicians,
      Callas, Maria (著者訳)
(注5)属 啓成著「シューベルトの生涯と芸術」 千代田書房

第四章 にわとり

第四章 にわとり 

世界中どこでも、人間のいるところには必ずにわとりもいるので、音楽の中にもにわとりは頻繁に登場します。ざっとあげても、サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の第二曲「雌鶏と雄鶏の群れ」、ハイドンの交響曲第八三番ト短調「雌鶏」、レスピーギの組曲「鳥」の第三曲「雌鶏」、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の第五曲「殻をつけた雛の踊り」、リムスキー=コルサコフの「金鶏」、等々が出て来ます。サン=サーンスの「死の舞踏」とかムソルグスキーの「はげ山の一夜」のような曲では、魑魅魍魎は夜明けの鐘とともに退散しますが、そんな時にはたぶんにわとりも鳴いているのでしょう。 

ニワトリ(Gallus gallus var. domesticus)は人に飼い慣らされ作り変えられて来た家禽類で、同じ「鳥」でも野生の鳥とは趣を異にします。鳥類図鑑には原種の野鶏のページはありますが、「ニワトリ」のページはありません。以下、「鶏の事典」(注1)を参照しつつ、鶏のプロファイルを紹介してみたいと思います。 

人がニワトリを家畜化した時期は正確には分かりませんが、少なくとも五千年以上昔であったと考えられています。そのルーツは、南アジアの森林に棲んでいるキジの一種であるセキショクヤケイ(Gallus GALLUS ヤブニワトリ)やその他のヤケイ属の鳥で、それらが長い年月をかけて飼い慣らされて来たものです。牛や馬の場合は原種となった種がこの世から全く消滅してしまっていますが、ニワトリの場合だけは現在でも祖先である野鶏が原種のまま四種類残っていて、遺伝や進化の歴史をたどる上で貴重な存在となっています。 

ニワトリが広く世界に伝播したのは、闘鶏に対する人々の興味のためであったとする説があります。近代ボクシングに採用されている、ヘビー、ライト、バンタム、と言うような重量制やその呼称は、もとはと言えば、それ以前にイギリスで大成された闘鶏のルールの中で使われていたものでした。アンコールワットの壁面には闘鶏の壁画もあります。日本でも、平安時代には鶏合せと呼ばれた闘鶏が、宮中をはじめとして庶民の間でも愛好され、三月三日の年中行事にまでなっていたと言うことです。プエルトリコでは今でも闘鶏が公認されていて、国民娯楽として人気第一位の座を維持し続けているそうです。このように見てくると、それが本来の目的であったか否かは別に、野鶏馴化の歴史と闘鶏とは無関係では無かったと言う説には説得力があります。 

欧米には「ヨコハマ」と呼ばれる一群のニワトリがいます。ヨコハマの波止場から、船に乘って、異人さんに連れられて行ってしまった「尾長鶏」、正確にはその子孫達です。日本には日本人の感性が作りだした「日本鶏」と言う鑑賞用のニワトリがいます。江戸末期までに日本に渡来してきたニワトリと、それらを用いて新しく作りだしたニワトリで、現在三十種近くが残っています。このうち十六種は国の天然記念物に、別に、尾長鶏が特別天然記念物に指定されています。土佐の尾長鶏は世界的に有名で、その尾羽は八メートルにも達するものもあり、育種技術の驚異とまで言われています。一方では尾の全く無いウズラチャボと言うニワトリもいます。イギリスをはじめ、世界各国でジャパニーズ・バンタムと呼ばれて愛されている各種のチャボも日本を代表する鑑賞鶏です。ニワトリの鳴き声は、闇を押し開く太陽を招くものとして古来より神聖視され、また死者を蘇生させる霊力を持つものと言う伝承が世界各地に存在するところからも分かる通り、ニワトリの大きな特徴はその鳴き声にありました。しかし鳴き声を変えて、より美しく鳴くニワトリを作ろうと努力したのは日本人だけでした。美声を楽しむことを目的に作られたニワトリがいると言うことは、世界の人々がひとしく驚くところです。ニワトリの鳴き比べコンテストが広くを行なわれている国は、恐らく日本以外には無いのではないでしょうか。鳴き声の美しさ故に天然記念物に指定されている長鳴鶏としては、東天紅(とうてんこう)、声良(こえよし)、蜀鶏(とうまる)と言うようなニワトリがいます。 

鶏卵は物価の優等生と言われているほど、日本の鶏卵産業は高い水準にありますが、その内容を見てみると、飼育されている鶏種は、アメリカで育種された『一代雑種が輸入されてわが国で原種として飼育され、さらにこの原種の二系統を交配して四元交配のニワトリが作られ、採卵用に利用されている・・上に・・養鶏につかわれる濃厚飼料は、原料の八〇パーセントまでが外国からの輸入品で占められていて、譬えていえば、機械も原料も輸入に依存した加工業のようなもの』(注2)なのだそうです。

肉用の鶏ではブロイラーの名前をよく聞きますが、本来は、ブロイル(broil)つまり丸焼き用に適した一・八キロ未満の小型の鶏を意味する言葉で、その他にフライ(fry)に適した中型のフライヤー、ロースト(roast)に適した大型廃鶏のロースターがありましたが、現在ではブロイラーとフライヤーの区別は行なわれておらず、両方ともブロイラーと呼ばれています。第二次世界大戦中に、深刻な食糧不足を補うために開発された早熟な肉用種で、生産効率は高いのですが、その分味が落ちるのは致し方ないところでしょう。 

ところで、鳥の声を人の言葉におきかえる「ききなし」は日本ばかりでなく、世界各地でその国の言葉によるききなしが行なわれています。ニワトリは、日本では「コケコッコー」ですが、英語圏では"Cockadoo-dledoo"とか"Cooks Quickly do"と鳴きます。面白いのはニワトリの親戚筋でもあるウズラで、英国では"Wet my lips" と鳴くのだそうです。日本でのウズラのききなしは、古くは「嘩嘩快」(カカカイ)でしたが、俳優の伴淳三郎が「アジャパー」と言う言葉を流行らせてからは、この方が似ていると言うことで、「アジャパー」に定着した時期があったと言います。(注。NHKーTV「日本人の質問」一九九七年九月二〇日)日本には鳥ばかりでなく、虫の声のききなしもあります。私の母はコオロギは「かささせすそさせ寒さが来るぞ」と鳴いているのだと言っていました。角田忠信理論によれば、欧米人の脳は虫の声は単なる雑音として処理してしまうそうですので、虫の音のききなしはおそらく欧米には無いのでしょう。 


サン=サーンス 「動物の謝肉祭」から「雌鶏と雄鶏の群れ」 

「動物の謝肉祭」の話は、第一章「スワン」のところで既にでてきていますが、その時には、作曲者のサン=サーンス自身については何も触れておりませんでした。カミュ・サン=サーンスは一八三五年に生まれ、一九二一年に亡くなったフランスの作曲家です。作曲家として名を残したので作曲家と言うことになりますが、何になっていてもその分野で名を残したであろうと考えられるような、きわめて高い知能指数と恐るべき記憶力の持ち主であったと言うことです。しかし、一〇才の時のデビュー・ピアノ・リサイタルで、アンコールに応えて「ベートーヴェンの全三二曲のどのソナタでも暗譜で弾きます」と申し出たと言うエピソードからは、天才の鼻持ちならぬ側面も伺えます。フランス天文学会の会員であったと同時に、オカルトにも興味を持っていました。そして、晩年には「諸問題と神秘」と言う哲学書をも物したりしました。敵も少なくなく、さまざまな不幸にも見舞われて、その晩年はけっして明るいものではありませんでした。 

サン=サーンスの音楽は、少なくともフランスでは、例えば国民音楽協会を創立して新進音楽家の育成擁護に努めたように、フランス音楽界に尽くしたと言う功績もあって高い評価を受けていますが、フランス以外の地域ではその評価はまちまちです。この点に関してショーンバーグは、『サン=サーンスは再評価さるべきだろう。車輪を一回転させるだけで、彼の完全な技量、軽やかだがエレガントで、明確な輪郭を持つ音楽思想がリバイバルに値することが判明するだろう。問題は、サン=サーンスが、最悪の作品「サムソンとデリラ」「白鳥」「死の舞踏」によって最もよく知られ、「ピアノ、トランペット、弦楽器のための七重奏曲」「ヴァイオリン・ソナタ・ニ短調」「ピアノ五重奏曲変ロ長調」などが演奏の機会に恵まれていないことである。』(注.3)と述べています。「白鳥」を最悪の作品の一つに加えることには抵抗がありますが、おおむね納得できるコメントです。音楽は演奏されなければ広く知られることはありません。その意味で、演奏家がこれらの「良い曲」を取り上げ、一般聴衆の前に披露してくれることを切に希望いたします。CDの普及以来、この種の希望は急速に満たされ始めていることも事実で、CD時代になってから聴く機会に恵まれた、サン=サーンス最晩年のピアノと管楽器のための三つのソナタなどは、今では最上位にランクされる「私の大好き音楽」になっています。 

「白鳥」すら最悪の作品ときめ付けられてしまえば、「雌鶏と雄鶏の群れ」は出る幕が無くなってしまいますが、前にも触れた通り、「動物の謝肉祭」は超一流の音楽ではないにしても、楽しい音楽であることはまぎれもない事実です。ある音楽が長い間多くの人に聴かれているのはそれなりの理由があってのことです。自分の「好きな」音楽は自分が決めればいいことで、誰が何と言ったかと言うようなことはあまり気にする必要はないのではないでしょうか。 


ハイドン 交響曲第八三番ト短調「雌鶏」 

この曲は、パリ交響曲と呼ばれている一一曲の交響曲の中の一曲で、「雌鶏」と名前はついていますが、実はにわとりとは全く関係がありません。このニックネームは、最初にこの曲を聴いた聴衆の一人が、第一楽章の第二主題がク、、、とオーボエで演奏されるのを聴いて、それが雌鶏の鳴き声に似ているといってつけたもので、残念ながら、明るく力強いこの交響曲の全体像からはほど遠い題名と言わざるを得ません。 

ハイドンはその長い生涯に、少なくとも一〇四曲の交響曲を作曲しました。もちろん交響曲の黎明期のもので、通に言わせれば、その後に輩出した大作曲家達の作品と比較すると、ハイドンの交響曲はプリミティヴで「軽い」と言うことになるのでしょうが、音楽が全て深刻なものでなければいけない理由はないし、明るく健康な響きを持った音楽の価値が低いなどと言うこともある訳がありません。むしろ、先の見えない、せち辛い、競い合うことにしか価値を見い出せないような、そんな今だからこそ、ハイドンの音楽はもっともっと尊重されてしかるべきであると私は主張したいのです。歴史的に見て、ハイドンが交響曲の生みの親であったと言う通説には同意しがたいのですが、ソナタ形式の確立をハイドンの功績としてたたえることには異存はありません。 

伝記によれば、ハイドンは、勤勉にして寛大、率直で正直、と言うこの種のほめ言葉が全て当てはまるような善意の人であったようです。人生の大半を貴族エステルハージ家のお抱え音楽係りとしてすごしましたが、貴族の雇用人と言う立場に不満を持ったことはありませんでした。週二回のオペラ、二回のフォーマル・コンサートの準備と演奏、作曲、後進の指導、お抱え楽士のとりまとめ等、仕事はかなりの激務であったと想像されますが、愚痴もこぼさず、忠実に職務を全うしました。人あたりも穏やかで、敵を作るようなことは性格的にできませんでした。明らかな失敗であったかつら屋の娘マリア・アンナ・ケラーとの結婚でも、彼女がとても手に負るタイプの女ではないことがわかると、さっさと自分の方から逃げ出して別居の道を選び、外で、同じ公爵のお雇い歌手のボゼルリと生活を共にすると言う方法を選びました。離婚はできませんでしたが、一八〇〇年にマリア・アンナが死ぬまで金銭上の責任はきちんとはたしていたようです。 

細事にこだわることなく鷹揚に全てを受け入れると言う器量の大きさは、同業者を競争相手と言う目で見るようなことが無かった彼の姿勢にも表れています。ハイドンは、一七八一年、ウィーンに滞在中のモーツァルトと会い親交を結びましたが、その時ハイドンは、モーツァルトの父親に「モーツァルトこそ、私が会ったことのある、あるいは、会ったことは無くても名前だけは知っている全ての作曲家達の中でも最高の作曲家だ。」と語ったと言うことです。これが単なるお世辞でなかったことは、それ以後のハイドンの作品にめざましい変化が見られることからも明かです。ハイドンは彼よりも二五才近くも若い、二五才のモーツァルトに天才を認め、モーツァルトから曲の構成や新たな表現の可能性について学んだのです。モーツァルトもハイドンを尊敬し、彼に、今日ハイドン・セットとよばれる六曲の弦楽四重奏曲(一四番ー一九番)を献呈しています。ハイドンの葬式ではモーツァルトのレクイエムが演奏されました。ハイドンは一時ベートーヴェンを教えたこともあります。ベートーヴェンはどちらかと言うと扱いにくい類の生徒であったようですが、ハイドンは早々とこの若者の才能を見抜いて、「ベートーヴェンはやがてヨーロッパ最大の作曲家となる」と自らも信じ、人にもそのように話していました。また、生涯のほとんどをウィーンとその周辺ですごしたハイドンは、晩年になって二回英国訪問の機会に恵まれ比較的長期間ロンドンに滞在しましたが、そこで聴いたヘンデルのオラトリオに刺激を受け、後に自らも「天地創造」や「四季」と言うような傑作を生み出したりもしています。 

ハイドンで思いだすのは、「ハイドン・モーツァルト・メタスタシオ伝」と言うタイトルの、フランスの文豪スタンダールの処女作のことです。日本で全文が訳出されたか否かはつまびらかではありませんが、私の手元には大岡昇平の訳で、ハイドンの部分だけが抜き出された、昭和二三年一月再販発行(初版昭和一六年)の「ハイドン」があります。非常に興味深いのは、これがスタンダールの処女作と言うよりは、ほとんど盗作に近いきわどいもので、事実、スタンダールは、元本であるイタリアの「ハイドン伝或ひは有名なる作曲家ジュゼッペ・ハイドンの生涯と作品に関する手紙」(Le Haydine, ovvero Lettre sulla vitae e le opere del ce'ebre maestro Giuseppe Haydn (Milano, 1812) の著者カルパーニ (Carpani) からひょうせつ剽窃の抗議を受けました。しかし著作権の存在しなかった時代の話で、しかもミラノとパリの間の言い争いではらちがあかず、カルパーニは充分な賠償は得られなかったと言うことです。更に滑稽なのは、スタンダールが、カルパーニの元本の内容を間違えて転記したことに気付かなかったイギリスの出版社が、その間違った情報をもとに、ハイドンとベートーヴェンの弦楽四重奏曲について大真面目に理論展開を試み、世の嘲笑の対象となったと言う事実です。その部分をここに紹介いたします。以下が、スタンダールがアルト(ヴィオラ)とヴィオロンチェロ(チェロ)を取り違えて転記した部分です。

『周知の様に四重奏曲は四つの楽器、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、アルト、ヴィオロンチェロによって演奏される。或る機智ある婦人がいつた。ハイドンの四重奏曲を聞くと四人の気が利いた人達の会話を聞く様な気がする。第一ヴァイオリンは中年の機智に富んだ座談の名人で話題を提供して会話を指導する。第二ヴァイオリンは第一ヴァイオリンの友人で自分を抑へ、あらゆる手段を尽して専ら友人を引立てようと努める。何か変ったことをいひ出すよりは他の人達がいつたことを賛成して会話を進行させる。アルトは学問のあるがっちりした格言好きの語手である。彼は簡潔なしかし人を打つ真理を含んだ格言で第一ヴァイオリンの議論を支持する。チェロは少しお喋りなお人好しの婦人だ。彼女は大したこともいへない癖に、しよつ中会話の仲間入りがしたくて堪らぬ。しかし彼女は会話に一種の優しさを齎らす。彼女が喋る間他の語手は一息つくことが出来るといふものだ。彼女は内々アルトの紳士に思召しがある。云々。』(注4)  

カルバァニの原文には無論それぞれ正しい位置、つまりヴィオラがお喋りな女、チェロががつちりした格言家となつていますが、スタンダールが「博学な」と折紙をつけた英訳版のM・G(マアレイ)は、スタンダールのこの転記誤りに気がつかず、これを根拠に、ベートーヴェンとハイドンの四重奏の相違について、「ハイドンのチェロはお喋りの婦人に似ているけれど、ベートーヴェンのはもっと真面目だ」と言う珍説を発表しているのだそうです。(注5) 

先達の著作に依存するケースの多い物書きとしては、以て銘すべきと受け止めなければならないと思っています。 

ハイドンの弦楽四重奏曲には、ハ長調作品三三ー三「鳥」と、ニ長調作品六四ー五「ひばり」と言う二つの鳥の曲があります。「鳥」の場合も「ひばり」の場合も、ハイドン自身がつけた題名ではありませんが、どちらも、鳥を連想させる旋律がふんだんに含まれていて、なかなか良い名前です。「鳥」の方は、各楽章に小鳥の鳴き声を思わせる音形が出てきますが、特に、曲の冒頭にいきなり出てくる第一主題はその代表的なものです。なじみ易い旋律が軽快なテンポに乗って歌われる明るい曲です。「ひばり」の方も、第一楽章の第一主題がいかにも青空に舞いながら歌うひばりを思わせるような旋律で、気持ちが安らぎます。ゆるやかなテンポはのどかな春の日差しすら感じさせてくれます。最終楽章では、わが世の春を謳歌するかのように、ひばりは忙しげに囀っています。 

交響曲であれ弦楽四重奏曲であれ、ハイドンの曲は、健康的で明るい力に満ち溢れていています。策を弄せず、背伸びせず、ゆったりと、自然体で生きたハイドンの音楽には、疲れた心を癒す不思議な力があります。さまざまなストレスに悩まされ、ノイローゼが持病となってしまった現代人に、ハイドンの音楽は、川のせせらぎや、山の緑にも似た、深い安らぎを与えてくれるはずです。 

名前だけではなく、本当にひばりを描写した曲としては、イギリスのヴォーン=ウイリアムスが作曲した、「あげ雲雀」と言うタイトルの曲があります。管弦楽曲ですが、独奏ヴァイオリンが、空高く舞い上がるひばりの声を描写するために使われています。


ムソルグスキー「展覧会の絵」から第五曲 殻をつけた雛の踊り 

ハイドンとは対象的に、ムソルグスキーは暗い人生を生きた人でした。もちろん時代の流れや社会的変革が人の一生を左右する大きな要素となり得ることは言うまでもありませんが、しかし、同じような境遇に置かれていても、ある人はその人生を明るく生きることができるのに、ある人はそれを暗く惨めなものにしてしまうと言うように、一人一人の生きる姿勢の違いによって、その生涯は大きく変わってしまいます。ムソルグスキーには自分で自分の人生を暗くしてしまったようなところがありました。構想した内容を、構想した通りに曲に盛り込むことができず、また折角作った作品が正当な評価を得られないことに苦しんで、次第に人から離れ、遂には酒に溺れて自らの命を縮めてしまいました。ムソルグスキーの作品は、彼の死後、彼が自分の方から離れて行った「五人組」の仲間を始めとする他の多くの人の助力を得て評価を高めて行きましたが、生きている時から、もっと積極的に、酒ではなく人の助けを受入れるような生き方はできなかったのでしょうか。四二才の誕生日の直後に亡くなってしまいましたが、そんな若さで、酒に奪われてしまうにはあまりにももったいない命であり、才能でした。ムソルグスキーは未完の大器どころか、自分自身で持て余してしまった程の才能を持って生まれた不運の天才でした。 

ムソルグスキーは一八三九年にロシアの西北部に位置するプスコフ郡カレヴォ村に生まれました。家は貴族の地主で、末っ子の彼は、恵まれた環境の中で、周囲の人達の愛を一身にうけてその幼年期を過ごしました。一〇才の時にサンクト・ペテルブルグに出てそこの中学校に入学すると同時に、アントン・ゲルケについて正式にピアノの勉強を始めました。一八五二年には近衛士官学校に入学しましたが、その後もピアノは続けておりました。卒業後、ムソルグスキーは近衛連隊に見習士官として入隊しますが、彼の言う「新しい岸辺」を求める欲求が次第に抑えがたいものとなっていったのはその頃のことです。しかし、ウオッカ以上に愛していたものが音楽であったとはいえ、そしてまた彼のピアノの演奏には聴く人を納得させるものがあったとはいえ、ムソルグスキーは作曲に関しては素人同然でした。そんなムソルグスキーに最終的に作曲を生業とする道を選ばせた要因は、やはりバラキレフとの邂逅であったと考えるのが最も自然でしょう。バラキレフは、まだ音楽の規則すらよく分からな言うちから自己流で作曲を始め、ほぼ独学で音楽を習得しつつ持ち前の強固な意志を貫いて、一八五七年にグリンカが亡くなった後には自らロシア民族音楽界の指導者的地位についた人です。そんなバラキレフの存在に勇気付けられたムソルグスキーは、一八五七年、彼のもとに馳せ参じて憑かれたように音楽の勉強を始めました。バラキレフのところにはすでに陸軍将校のキュイがおり、ムソルグスキーの後に海軍将校のリムスキー=コルサコフと化学学者ボロディンが参加しました。先生格のバラキレフは独学の人、そしてその人の下に集まった四人は全員が他に職業を持つ素人でしたが、この人達が後に「ロシアの五人組」と呼ばれ、「洗練された」西ヨーロッパ型の音楽の普及をめざしていたサンクト・ペテルブルグ音楽院やモスクワ音楽院に対し、はっきりと対立姿勢を打ち出して祖国ロシアの民族音楽の伝統を守る運動を展開した人達でした。しかしこの五人組も、バラキレフの強すぎる個性と、その影響下におさまりきれないそれぞれの個性がぶつかりあい、更にムソルグスキーの自我が他の仲間との協調を拒否するに至って解体してしまいます。 

ムソルグスキーの不運は、彼が正式に作曲理論を学ぶ機会に恵まれなかったことに起因しています。そのため、溢れ出る構想を音楽の形にまとめあげ、充分に表現しつくすことができませんでした。彼がいかに最善を尽くしても、彼の音楽には、理論的、技術的欠陥が点在していました。ムソルグスキーが心血を注いで作った歌劇「ボリス・ゴドノフ」に対して、友人のキュイは、ほかの理由に併記して「未熟さ」「技術的欠陥」をあげて批判していますが、後にリムスキー=コルサコフも『「私はこの作品を崇拝すると同時に憎む。オリジナリティ、力強さ、独自性、美しさは崇拝に値する。しかし和声面の欠陥と粗雑さ、音楽上の矛盾に関しては、これを憎む」』(注6)といい、自らその改訂を行なったことからも、キュイの批判が不当なものではなかったことが判ります。しかしムソルグスキーはそうは受け取りませんでした。彼は怒ります。『私は、嫉妬深くなり、頭が混乱し、怒り狂っている。ただ、私には心痛と不満があるばかりだ。キュイは、何と非礼な批評をしたのだろう。あんなことが、教養ある人間に許されていいものだろうか』(注7)これは一八七四年にムソルグスキーが友人にあてた手紙です。ムソルグスキーは裏切られたと感じました。そして完全に仲間からも孤立し、崩れるように酒に溺れて行きました。 

「展覧会の絵」が生まれた頃、ムソルグスキーの生活はすでにかなり酒臭いものとなっておりました。一八七〇年、ムソルグスキーは、最後まで親交を保った少ない古い友人の一人、ロシア民族音楽の旗手でもあった評論家ウラディミール・スタソフの紹介で、画家であり建築家でもあったガルトマン(当時はハルトマンと呼ばれていました)と知り合いになりました。ガルトマンがロシアの伝統や民衆の姿を自分の芸術の中に取り込もうとしているのを知って、ムソルグスキーは音楽でロシアそのものを表現することを目指していた自分と同じ姿勢のこの芸術家に強く惹かれました。しかしガルトマンはムソルグスキーと知り合って三年後、三九才の若さで亡くなってしまいます。 

一八七四年の春、この無名の芸術家の遺作展が開催されました。ガルトマンの死を悼むムソルグスキーとスタソフの二人の尽力があっての展覧会でした。悲しみのうちにこの展覧会に望み、四百点にも及んだ遺作を見てまわるうちに、ムソルグスキーは、ガルトマンと自分を結び付ける作品を残したい欲望に駆られます。そして憑かれたように一気に作曲したのがピアノの組曲「展覧会の絵」でした。表紙に「ガルトマン」と鉛筆で書かれた跡が残っているところから、最初に考えたタイトルは「展覧会の絵」ではなく「ガルトマン」であったのかも知れないと言う推測も成り立ちます。 

今でこそ知らぬ人はいない位のムソルグスキーの代表作「展覧会の絵」も、トゥシュマロフ等が管弦楽用に編曲したものがロシア国内で演奏されていたとは言え、一九二二年にラヴェルの手になる管弦楽用編曲版が世に出るまでは、その存在は国際的にはほとんど知られていませんでした。実に半世紀もの間、正当な評価を受けられないまま埋もれていたと言うことになります。いろいろ理由は考えられますが、やはり作曲技法上の欠陥が最大の理由だったのではないでしょうか。と言いますのも、ラヴェルの管弦楽版が紹介された後でピアノの原典版を演奏する気運が生まれて来てからも、演奏者毎に細かなリタッチが施された「展覧会の絵」が演奏されるのが常で、厳密な意味での原点版が演奏されるようなケースは皆無と言っても良いのではないかと思える程だからです。今ではいろいろなピアニストが演奏したいろいろな「展覧会の絵」をレコードやCDで聴くことができますので、聴き比べてみるのも面白いと思います。 

この組曲の第五曲目が「殻を着けた雛の踊り」で、ガルトマンの絵は「トリルビー」と言うバレーの舞台衣装のために描いたデッサンだそうです。四曲目の「ビドロ」と六曲目の「二人のユダヤ人」は重い感じの曲で、その間に明るい小曲「殻を着けた雛の踊り」が挟まれていて、コントラストが鮮やかです。


リムスキー=コルサコフ 歌劇「金鶏」 

一九八九年七月にボリショイ劇場が二〇年ぶりに日本を訪れ、大掛かりな引越公演を行ないました。その時に「ボリス・ゴドノフ」とか「エフゲニー・オネーギン」と言う、いわばスタンダードのロシア歌劇に加えて、非常に珍しいオペラ、リムスキー=コルサコフの「金鶏」が上演されました。もちろん日本初演でしたが、これはボリショイ劇場においても、その前の年に、一九三二年以来、五六年振りに復活公演が実現したと言う、いわく付きのオペラでした。ソヴィエト社会主義共和国連邦の時代に長いこと上演ができなかったのは、この「金鶏」がおろかな独裁者と専制政治に対する風刺を内容とするオペラであったために体制批判に通じるものと判断され、原典のままでの上演は困難であった上に、リムスキー=コルサコフ自身が内容の部分削除を厳しく禁じていたために、修正版の上演もできなかったと言うのがその理由です。 

オペラは、ドドン王と言う、少々頭の弱い国王を最高権力者にいただく架空の国の話で、文豪プーシキンの原作になるおとぎ話に基づくものです。ドドン王は「褒美に欲しいものは何でもやる」と言う約束と引き替えに、星占い師から、国に危険がせまると高らかに鳴いて警告してくれる「金の鶏」を貰い受けます。王が饗宴に明け暮れていると、ある夜、見張りの金鶏がけたたましく鳴いて敵の襲来を告げます。王は二人の王子を戦場にさしむけますが、あえなく二人とも戦死してしまいます。またまた金鶏が急を告げるので、今度は王自身が戦場に向かいます。すると、敵陣から妖婉なシェマハの女王が現われ、美しい声で歌って王を魅了します。彼女の誘惑に乗せられ、のぼせ上がったドドン王は完全に戦意を喪失し、心身ともに女王の性的魅力の奴隷と化してしまいます。どうやら二人の息子も戦死したのではなく、シェマハの女王を独り占めしようと争って、互いに刺し違えたようです。ドドン王は、シェマハの女王に「わたしを愛してくれるなら、あなたに巨大な王国を進呈しよう。全部あなたのもの、私自身も。・・・鳥の乳以外なら何でもあげる。」と約束します。そして彼女を王宮に連れて帰り王妃にすることにしますが、その婚礼の席に星占い師が褒美を取りに現われ、王に自分が欲しいのはシェマハの女王だと告げます。怒った王は王杖で星占い師を叩き伏せてしまいます。すると一天にわかにかき曇り、鋭い叫び声とともに金鶏が現われてドドン王をくちばしで突き殺してしまいます。間抜けな上に横暴な王様であったにもかかわらず、その王様が死ぬと、民衆は、喜ぶどころかただおろおろするばかり。駄目なのは国王だけではありませんでした。沈黙の後に、殺されたはずの星占い師が現われ、観客に向かって「お話はこれでおしまい。結末がどんなにいたましかろうと、心配はご無用。私と女王だけが、ここでは生きた人間だったのです。その他のものは絵そらごと。血の気のない幽霊。そしてからっぽ」(注.NHK-TV字幕より)と言う口上を述べ幕となります。 

このような風刺劇を、体制の権力者が好む筈がありません。この歌劇は、リムスキー=コルサコフの最晩年、一九〇八年の作品で、ロシアが日露戦争に負けて間もない頃であったこともあって、その風刺性故に舞台にかけることができず、リムスキー=コルサコフはその初演を観ることなく翌一九〇九年に亡くなっています。 

この歌劇が、一九八八年になって半世紀振りにボリショイ劇場で取り上げることができるようになったのは、何といってもペレストロイカのお陰です。それまでソ連では、特にスターリン体制の社会主義的リアリズム重視の時代には、「皇帝」と言う呼名の使用の禁止、宗教的表現の禁止、等々の制限があって、ロシアの歌劇であっても、細かいところまで丁寧に改訂したものでないと上演はできませんでした。題名でも、例えばグリンカのオペラ「イワン・スサーニン」のように、「皇帝に捧げた命」と言う原題が使えない為に、主人公の名前をそのまま使って、仮の題名としたようなものすらありました。まして、体制を批判するような内容のオペラの上演など、全く不可能であったのは言うまでもありません。しかし、ペレストロイカの浸透とともに無理な改訂は元に戻され、今では帝政ロシア時代のオペラも原典版で上演出来るようになっております。 

歌劇の中では、金の鶏はマリオネット(糸あやつり人形)が演じる場合もあるそうですが、東京での公演ではバレリーナによって演じられ、華麗なそして躍動感のある金の鶏が作り出されていました。ここでの金の鶏は「キキククー」と鳴いておりました。 

組曲「金鶏」は、作曲者自身がこの歌劇を演奏会用組曲にまとめたものです。 


レスピーギ 組曲「鳥」から 第三曲 「雌鶏」 

組曲「鳥」からは、ナイチンゲールとカッコウがそれぞれの章にすでに登場済です。ここでは、第三曲目の雌鶏について簡単にふれ、残った鳩は第六章に登場してもらうことにいたします。 

この「雌鶏」の主題は、ジャン・フィリップ・ラモーの鍵盤楽器用の La Poule (雌鶏)によるもので、ラモーの原曲になじんでいるバロック・ファンも少なくないはずです。ここでは第一ヴァイオリンの雌鶏が、忙しく コッ、コッ、コッ・・・をくりかえしていますが、終盤にきて、金管の雄鶏が一声大きく鳴くと雌鶏はシュンと黙り込んでしまいます。










(注1) 山口健児「鶏の事典」読売新聞社
(注2) 正田陽一「家畜と言う名の動物たち」中央公論社
(注3) ショーンバーグ/亀井旭・玉木裕「大作曲家の生涯」共同通信社
(注4. 5)スタンダアル、大岡昇平訳「ハイドン」(創元社)(原文のまま、漢字は現代
      略字に変更、著者注)
(注6.7) ショーンバーグ/亀井旭・玉木裕「大作曲家の生涯」 共同通信社

第三章 ナイチンゲール(夜鳴きうぐいす)

第三章 ナイチンゲール (夜鳴きうぐいす) 

鳴き声の美しい鳥の筆頭は、やはりナイチンゲールということになるのでしょうか。私もイギリスに滞在中、春先、フルートかピッコロの音色に似た声でふるえるように鳴く、ナイチンゲールの声量豊かな囀りを聞いて、楽しい気分にさせられたものです。北アフリカからヨーロッパ大陸の比較的北の方まで、更に中央アジアから中東の一部に至る地域に分布していて、時期的にずれはあるものの、この鳥に接することのできる範囲はかなり広いのですが、残念ながら日本はこの範囲に含まれていません。日本にはナイチンゲールはいないのです。 

ナイチンゲール(Erithacus megarhynchos) はツグミ類ヒタキ科の鳥で仲間にはコマドリ(Erithacus akahige)やノゴマ(Erithacus calliope)等々、歌の名手が揃っています。ナイチンゲールは地味な茶色の小さな鳥で、高い木の上よりは薮や茂みの方を好むので、姿を見る機会よりは声を聞く機会の方がずっと多いという点では日本のウグイスによく似ています。しかし、ナイチンゲールに「夜鳴きうぐいす」という呼び名を与えるのはいかがなものでしょうか。山科芳麿著、世界鳥類和名辞典-大学書林-によれば、ナイチンゲールの和名はサヨナキドリで、うぐいすではありません。おそらく最初に翻訳されたアンデルセン童話のナイチンゲールが「夜鳴きうぐいす」と訳されてしまったために、その後は、オスカー・ワイルドのナイチンゲールも、音楽のタイトルのナイチンゲールも、すべて夜鳴きうぐいすになってしまったものと思われます。ナイチンゲールにごく近い種類に、英語名が「スラッシ・ナイチンゲール」という鳥がいて鳴き方もよく似ています。この鳥の和名はヨナキツグミなので、ナイチンゲールが「夜鳴きつぐみ」と訳されていたのならば、それは必ずしも間違いではなかったと言えるのですが。それにしても「サヨナキドリ」と言う和名は、美しい響きのすばらしい名前です。 

ナイチンゲールは夜でも鳴くことがあります。夜しか鳴かないのではなくて、夜でも鳴くことがあるという言い方の方が適切です。ただ、時折りとはいえ、闇をはばかることなく立派な声量の鳴き声を響かせるとなると、それだけで夜鳴き鳥と呼ぶことに異論を挟めなくなります。夜鳴く猛禽ヨタカですら、もう少し遠慮しながら鳴いているように聞こえます。 

ところで、ナイチンゲールの仲間のコマドリの学名は Erithacus akahige ですが、日本にはコマドリによく似たアカヒゲという小鳥がいます。面白いことにその学名は Erithacus komadori です。コマドリが akahige で、アカヒゲが komadori になってしまったのは、日本語名を学名であるラテン語に翻訳し登録した際に、日本語名と翻訳されたラテン語名とが入れ違いになったまま登録されてしまったという単純なミスによるもので、日本語が読める日本人には誠に紛らわしく、かつ嘆かわしい事でもありますが、世界的に見ればこれはこれで間違いではなく、正しい学名として通用しているのです。 


ストラヴィンスキー 交響詩「ナイチンゲールの歌」 

ストラヴィンスキーは一九一四年、三二才の時に、アンデルセンの童話にもとづくオペラ「Le Chant du Rossignol・ナイチンゲールの歌」を発表しました。作曲を始めたのは一九〇九年といわれておりますので、それまでに立て続けに発表し世界的にセンセーションを巻き起こした「火の鳥」「ペトルーシュカ」と、賛否両論の火だねとなった「春の祭典」の三つのバレエ音楽は、すべてこの「ナイチンゲール」作曲中に平行して作曲、発表されたものということになります。オペラは完成と同時に、ピエール・モントーの指揮でパリ・オペラ座で初演されましたが、三つのバレエ曲の前には影が薄くあまり評判にはなりませんでした。三年後にストラヴィンスキーはこのオペラの音楽に手を加え、演奏会用の交響詩として再発表しました。これが今聴くことの出来る「ナイチンゲールの歌」です。 

交響詩「ナイチンゲールの歌」は、(1)中国皇帝の王宮広間、(2)二羽のナイチンゲール、(3)病床の皇帝、の三つの部分から成り立っています。「皇帝は美しい声で鳴くナイチンゲールをこよなく愛していましたが、日本から本物よりも良く鳴く「からくりナイチンゲール」が持ち込まれるや、本物のナイチンゲールを追放の刑に処してしまいます。しかし、死の迫った皇帝を救ったのは追放された本物のナイチンゲールで、その心のこもった美しい鳴き声には死神すら心を奪われ皇帝から離れて行った」という物語に添った構成になっています。大きな編成のオーケストラで演奏されますが、当然の事ながらフルートが大活躍することは言うまでもありません。 

ここには、後のテクノロジー王国日本の片鱗が伺えます。それにしても、日本の技術者は、日本にいないナイチンゲールの鳴き声をどのように真似て機械仕掛けのナイチンゲールを作ったのでしょうか。おそらく、アンデルセンは、デンマークと同じように中国にも日本にもナイチンゲールがいると思っていたに違いありません。 

ストラヴィンスキーを語るとき、もう一つの「鳥」の曲、「火の鳥」を取り上げないわけにはいきません。この「火の鳥」こそが、天才ストラヴィンスキーの名前を広く世に知らしめた最初の曲であったからです。 

ストラヴィンスキーは、一八八二年にロシアのサンクト・ペテルブルグに近いオラニエンバウムに生まれ、一九七一年にアメリカのニューヨークで亡くなりました。父親がオペラ歌手であったこともあって、音楽的に恵まれた環境の中で育ったとはいえ、生涯に一度も、音楽院に入ったことも、学校で音楽教育を受けたこともありませんでした。従って音楽関係の学位も持っていませんでした。しかし、ストラヴィンスキーが二〇世紀を代表する作曲界の巨星の一つであったことに異論を唱える人は居ないでしょう。ストラヴィンスキーは、サンクト・ペテルブルグ大学に入学し、二年ほど法律を学びましたが、その時、同じクラスにリムスキー=コルサコフの子息ウラディミールがいて二人はいい友達でした。ストラヴィンスキーは、サンクト・ペテルブルグ大学を卒業することなくドイツに行き、そこで、ハイデルベルグ大学の学生であった、リムスキー=コルサコフのもう一人の息子アンドリューとも親しく交際するようになりました。もちろんウラディミールの紹介があってのことであったものと思われます。そして、ストラヴィンスキーの音楽に対する関心が並々ならぬものであることを知ったアンドリューは、彼を父親に紹介しました。弱冠二〇才のストラヴィンスキーは、早速サンクト・ペテルブルグのリムスキー=コルサコフの私邸を訪問し、リムスキー=コルサコフと対面しました。ストラヴィンスキーは好感をもって迎えられ、リムスキー=コルサコフとストラヴィンスキーの師弟関係がスタートすることになります。リムスキー=コルサコフはストラヴィンスキーの非凡な才能を認め、無償で彼にオーケストレーションの技法を教えました。ラッキーであったのはストラヴィンスキーだけではありません。ストラヴィンスキーがリムスキー=コルサコフからオーケストレーションの技法を学ぶことができたのは、二十世紀の音楽界にとっても誠にラッキーなことでした。ストラヴィンスキーのリズムの不規則性はロシアの民族音楽のリズムの流れを引くもので、それまで、四分の五拍子とか、四分の七拍子というロシアの民族音楽特有の拍子は、西側の作曲家の作品にはほとんど現われたことのないパターンでした。ストラヴィンスキーのリズム感覚は、ロシアのリムスキー=コルサコフの下で学んだからこそ大胆に発展させることができたのです。一方、そのリズムを誘導するロシア的な語り口、輝かしいソノリティーを生みだす楽器の構成は、リムスキー=コルサコフの管弦楽にはっきりと認められるものです。二十世紀を代表するストラヴィンスキーの音楽、特に初期の作品には、リムスキー=コルサコフの影響が色濃く現われていますが、師弟をつなぐ絆はまさに二人が共有したロシアの民族音楽でした。一九〇八年七月、リムスキー=コルサコフは、そのすぐ後に、ストラヴィンスキーがディアギレフの下で手中にする圧倒的な大成功を知ることなく世を去りました。 

ストラヴィンスキーを一躍世界の寵児に押し上げた作品が、バレエ音楽「火の鳥」です。一九〇九年、セルゲイ・ディアギレフは、自分が組織したばかりのロシア・バレエ団が、翌年のパリでの旗揚げ公演で発表する計画の新作バレエ「火の鳥」の音楽の作曲を、弱冠二七才のストラヴィンスキーに委嘱しました。ディアギレフは「スケルツォ・ファンタスティーク」というストラヴィンスキーの初期の作品から、敏感にこの若い作曲家の可能性を嗅ぎ付け、試験的にショパンの「レ・シルフィード」の編曲を依頼したりして、来るべき日に備えていたようではありますが、それでも、「火の鳥」の作曲を最初からストラヴィンスキーに任せたわけではありませんでした。ディアギレフは、はじめ音楽の作曲をアナトール・リャードフに依頼しましたが、それが遅々として捗らないのに業を煮やし、リャードフの了解のもとに、その依頼先をストラヴィンスキーに変更したのです。計画のおくれを取り戻すために、厳しい日限が指定された委嘱でしたが、ストラヴィンスキーは迷うことなくそれを引き受けました。自分の能力すらはっきりとは分かっていなかったからこそできた決断であったのかも知れません。しかし若いストラヴィンスキーにとっては、そんな心配よりも、高名な興業主が組織した舞踏団の、パリ旗揚げ公演という重要なイヴェントに関わることができるという、千載一遇のチャンスの到来を前に興奮の方がはるかに大きかったことは想像に難くありません。 

一九一〇年六月二五日、予定通り「火の鳥」はディアギレフの率いるバレエ団によりパリで初演されました。ミッシェル・フォーキンが振り付け、背景や衣装にはバクストとかゴローヴィンが名前をつらね、ニジンスキー、カルザヴィナ等の一流舞踏家が踊るという、万全の体勢で望んだ「火の鳥」の初演は大成功をおさめました。中でも、ディアギレフが予言していた通り、ストラヴィンスキーの音楽は圧倒的な好評をもって受け入れられ、一夜にして世界は非凡な新作曲家の登場を知ることになりました。ドビュッシーは『これは完璧な作品ではない。にもかかわらず、ある側面からみれば非常に見事である。というのは、ここでは音楽が舞踏の従順な召し使いになっていないからである。そして時折、全く風変わりなリズムの結合が聞かれる。』(注1)とコメントしています。 

おとぎ話の火の鳥は、半身は鳥、半身は女という創造物ですが、ここでも話は、魔法の呪縛に苦しむ王女やその家来を王子が助け出すというだけのもので、王子が、一度は捕獲したものの慈悲心から逃がしてやった火の鳥の支援を得て魔王との戦いに勝ち、その結果、魔法の力で石や妖怪に変えられていた者たちが、全て元の人間に戻るという筋書きです。音楽は、火の鳥の登場、王子の登場、王子による火の鳥の捕獲、火の鳥の嘆願、解放、王子と王女達のダンス、魔王の怒り、戦略的子守歌、魔王の魂の宿る巨大な卵の破壊、呪縛からの解放、王子と王女の結婚等々の場面にあわせて作られていて、火の鳥のテーマはその時々の状況によりいろいろな形で曲の中に現われます。 

ストラヴィンスキーは、この後、同じくディアギレフのバレエ団のために、立て続けに「ペトルーシュカ」と「春の祭典」を作曲し、彗星の如く現われた新進作曲家の名声は不動のものとなりました。しかし、この後、彼の作風は少しずつ変化して行きます。ストラヴィンスキーは、三つのバレエ音楽をもってストラヴィンスキーと信じている彼の聴衆を置いたまま、どんどん新しい方向に進んで行ってしまいます。一九一九年には、初演の翌年彼自身が演奏会用にまとめた「火の鳥」組曲を、その時点で彼が最も適切であると信じる形に改編してしまいました。ここでは、オリジナル曲のきらびやかさが削られ、音楽的効率を重視した贅肉落としが実行されています。更に一九四五年には、著作権の問題もあって再度改作がほどこされ、現在四五年版と呼ばれている組曲「火の鳥」も残されました。この最後の四五年版になりますと、オリジナル曲とはかなり趣の違う、新古典主義的「火の鳥」に変身してしまっています。現在CDなどで、一九一〇年のオリジナル版に加え、演奏会用の組曲として、一九一一年版、一九一九年版、そして一九四五年の版というようないろいろな版の「火の鳥」が聴けますので、それらを聴き比べ、ストラヴィンスキーの作風の変化をたどって見るのも面白いと思います。 

第二次大戦終結後、シェーンベルクが主導する一二音派の思想を信奉する若い作曲家や批評家によって、ストラヴィンスキーの新古典主義が批判の対象になりましたが、その攻撃の最先鋒を務めた一人がピエール・ブーレーズでした。ブーレーズ自身はストラヴィンスキー研究の第一人者で、一九五三年に発表された「ストラヴィンスキー・ドミュール」と言う彼の論文は、単にストラヴィンスキーの作品のみならず、現代音楽の研究者、そして音楽理論や音楽美学の研究者にとって必読書と言われる程の重要な論文として認められています。また、ブーレーズの指揮で録音されたストラヴィンスキーの音楽は、どれもが大変素晴らしい出来栄えのもので、ブーレーズがストラヴィンスキーの優れた理解者であることを疑う余地はありません。 

そのブーレーズ達から、大戦後「和声と旋律を問わず、あらゆる領域で硬化症に陥っている」との厳しい批判を受けたストラヴィンスキーでしたが、そのストラヴィンスキーの対応は見事でした。彼は積極的に一二音の音楽、特にウェーベルンの作品を調査し、その長所を認識してからは自ら一二音音楽の習作も始めました。喜寿を目前にした、そしてすでに世界最高の現存作曲家という評価も得ていたストラヴィンスキーが、自分の目指す方向とは全く違う流れの音楽の正否を、自分からその中に歩み入って確認する努力を惜しまなかったのです。そして一九五八年には全部が一二音で書かれた作品「トレニ」を作曲発表し、それが一時の気まぐれでないことを、ピアノとオーケストラのための「ムーヴメンツ」「説教、説話および祈り」「オルダス・ハックスリーの思い出のための変奏曲」「レクイエム・カンティクレス」等々の作品を次々と発表して立証しました。シンパサイザーは、ストラヴィンスキーが一二音派からの非難に屈して敵の軍門に下ったと考え、失望の色を隠しませんでした。しかしその動機が何であれ、事実としてストラヴィンスキーが示したことは、たとえ一二音技法を使おうとも、ストラヴィンスキーの音楽はストラヴィンスキーの音楽以外のなにものでもないということでした。結果的に、彼は一二音音楽の理も認め、一二音でも彼自身の音楽が作れることを示し、彼がそれまで一二音に手を染めなかったのは彼が怠惰であったからではなく、一二音以外の言葉でも充分に彼の意図が表現できたからである事を立証してみせたのでした。いずれにせよ、健康で長生きしたストラヴィンスキーは生涯に一〇〇をこえる作品を残しましたが、一二音音楽はそのごく一部にすぎません。また個人的には一二音派の作曲家達と親交を持ったこともありませんでした。ロスアンジェルスに住んでいたころには、すぐ近くにシェーンベルクも住んでいましたが、そして二人はお互いに面識もあったのですが、行き来は全くなかったと言うことです。 

話はだいぶ横道にそれてしまいましたが、ストラヴィンスキーのごく初期の作品であるバレエ音楽「火の鳥」には、当然の事ながら、リムスキー=コルサコフの影響が色濃く現われています。作曲にあたってはオペラ「金鶏」を参考にしていて、ロシア国民楽派の伝統を引き継ぐ作品となっています。このリムスキー=コルサコフのオペラ「金鶏」については、次の「にわとり」の章で取り上げたいと思います。 


レスピーギ ローマの松 から 「ジャニコロの松」 

レスピーギは大変な新らし物好きであったようです。彼は「ローマの松」の第三曲目「ジャニコロの松」でナイチンゲールの鳴き声を取り入れていますが、その方法は鳴き声を楽器をもって再現するのではなく、何と電気的に録音されたナイチンゲールの声をオーケストラと一緒に鳴らすと言う、当たり前の作曲家では思いもつかないような方法によるものでした。しかし、マイクロフォンを使った電気吹き込みによりそれまでのラッパ吹き込みより良い音で録音できるようになったとはいえ、この曲が作られた時代(一九二四年)の録音は、今日の水準から考えたらお話にならないような粗末な音で、当時この試みが成功したとは考えにくいことです。しかし、現在発売されている「ローマの松」のCDには、レスピーギの指定通り、録音されたナイチンゲールの鳴き声が使用されている物が多く、この曲用に録音された「鳴き声テープ」も有名な楽譜出版社から発売されているそうです。今では演奏会でも原則的にはレスピーギの指定通り、オーケストラの演奏にスピーカーからの再生音を重ね合わせる方法がとられています。録音された鳴き声の代わりに水笛等が使われることもない訳ではありませんが、ナイチンゲールの鳴き声がきこえてくるあたりは、オーケストラもかなりの音量で鳴っている部分なので、音量が自由にコントロールできるアンプとスピーカーによるシステムを使用する方が、狙った効果を出しやすいことだけは間違いありません。 


レスピーギ 組曲「鳥」から 第四曲「ナイチンゲール」       

当時の技術では、本物の鳴き声の録音を使用する方法では思う通りの効果が得られなかったからか、「ローマの松」の後で作曲された、組曲「鳥」ではフルートにナイチンゲールの役割をまかせています。この「ナイチンゲール」には、一七世紀にイギリスで作られた作者不詳の旋律が使用されていますが、描かれた風景は、レスピーギの感性が描きだしたイタリアの田園風景に他なりません。弦楽器の森のささやきに誘われて、フルートのナイチンゲールが美しく歌っています。


ヨハン・ツェラー 「小鳥や」作品12bから「ナイチンゲールの歌」

一九世紀末にオーストリアの作曲家ヨハン・ゼラーの作った Der Vogelhandler(小鳥や)という三幕のオペレッタの中にも「ナイチンゲールの歌」というのが出て来ます。今ではこのオペレッタ自体が演奏される機会はほとんど無くなってしまったようですが、ウイリー・ボスコフスキーの指揮による全曲版CDが発売されていますので聴くことは可能です。題名の Der Vogelhandler というドイツ語は鳥を扱う全ての職業の人を指す言葉ですが、かつては、とりもちを塗った棒で小鳥を捕まえる「鳥刺し」と言う職業があって、この場合の Vogelhandler も英語で言うところの Birdcatcherですので、捕獲業者つまり「鳥刺し」と言うことになります。モーツァルトの歌劇「魔笛」に出てくるパパゲーノも鳥刺しです。 

モーツァルトの音楽にも鳥の声は取り入れられています。しかし、この作曲家は自然の鳴き声をそのまま模倣するような使い方はしておらず、一度鳥の声を頭の中に取り込み、咀嚼してから、音譜の形に表現し直しているため、どの音が鳥の声かは、言われてみないとなかなか分りません。例えば、「魔笛」の序曲の最初のアダージョがアレグロに変わった後に、単なる装飾以上の役割を負った旋回音(グルッペット)がでて来ますが、これが鳩の声ではないかと言われています。この形はパパゲーノの第一幕のアリアの最初の小節にも現われ、また、第二幕でのアリアにもやや早いテンポで倒立して現われるので、この音型はそう解釈するのが自然だと、マルセル・モレが「神モーツァルトと小鳥たちの世界」(注3)の中で言っていますが、私にはもう一つピンと来ません。 

小鳥がモーツァルトの音楽を真似て囀ったという大変微笑ましいエピソードも紹介しておきたいと思います。このエピソードは、マルセル・モレが、彼が読んだ本に紹介されていたものをまた引きの形で引用しているものです。

『一七八四年のある日、ウィーンの街を歩いていた若いモーツァルトは驚いたように一軒の小鳥屋の前で足を止めた。入口の扉の上の籠の中の鳥は、モーツァルトが前月に完成したばかりのピアノ協奏曲ト長調(K四五三)のアレグレットのテーマを歌っていたのである。その鳥はむく鳥の一種であった。彼はそれを三四クロイツァーで買い、家に戻ると、金銭出納帳に金額を書き、その下に協奏曲のアレグレットの最初の五小節を書き記した・・・・・。』(注4)

さすがはモーツァルト、小鳥にまで影響を与えたとは!、と言いたいところですが、実は一八世紀のヨーロッパでは小鳥に音楽を教えるホビーが流行し、その手ほどきをする学校すらあったと言うことです。籠の中の鳥に、鳥の声に良く似た音を出すリコーダーやフルートのような楽器を使って、何度も同じメロディーを吹いて聞かせると、次第にそのメロディーを習得し、自分の声でそれを真似るようになるのだそうです。オウムやキュウカンチョウが上手に人の言葉を真似ることは良く知られていますが、鳥の中には他の鳥の鳴き声を真似るのが上手な鳥もいます。そんなこことからも分かるように、鳥は音楽を習得する能力も持っているものと考えて間違いはないでしょう。当時は、小鳥が真似しやすいような音階を使った音楽が特別に作曲されたりもしていたようです。









(注1) ショーンバーグ「大作曲家の生涯」下141ページ、共同通信社
(注2) LPレコードSMSー2324「春の祭典」ジャケット解説(大宮真琴著)
(注3、 4)マルセル・モレ著・石井宏訳「神モーツァルトと小鳥たちの世界」東京書      
      籍

第二章 スワン

第二章 スワン 

音楽の中に現われる鳥の中では、ナイチンゲール、カッコウに次いで、スワンが多いような気がしますがはっきりしたことは分りません。スワンは成鳥は白色ですが、若鳥はすすけた色をしています。またオーストラリアにはブラック・スワンと言う黒いスワンもいます。ヴィラ=ロボスには「黒い白鳥の歌」と言う曲がありますが、黒いスワンを白鳥と呼ぶのには抵抗がありますので、ここでは総称としてスワンと呼ぶことにいたします。チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」の中にも黒いスワンが登場します。その他には、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」、サン=サーンスの「白鳥」のように白鳥を題名に据えた作品、それから、題名には出て来ないまでも、例えばワーグナーの「ローエングリン」のように、白鳥が重要な役割をはたすものとかもあって、スワンは音楽の中で大活躍しています。

スワンは人を恐れず、里近くに棲息する鳥で、その優雅な姿態は古くから人々に愛されて来ていますが、イギリスのブライトンにあるロイヤル・パヴィリオンの展示場には、かつては白鳥を食用として捕獲した事実を示すような展示品もあって、白鳥にとっては人間が必ずしも何時もフレンドリーな存在であったわけではなかったことを知らされ、複雑な気持ちにさせられます。ヒンデミットには「白鳥の肉を焼く男」と言う恐ろしい題名の曲もあります。

ヨーロッパでは、コブハクチョウ(Cygnus olor)が最も広範囲に分布していますが、近年はオオハクチョウ(Cygnus cygnus)の棲息範囲が南下していて、その数も増加の傾向にあります。日本に飛来するのはオオハクチョウとコハクチョウ(Cygnus columbianus)で、冬鳥としてやって来ます。両目の間あたりがふくらんでいて、ちょっと怒ったような顔つきをしたコブハクチョウは渡りをしない鳥(注.「Birds of the World"」 DK Publishing, Inc.)で、日本に渡って来ることはありませんが、公園や動物園で飼われていたものが逃げて沼地や川に移って来るることはあります。一年中お掘りや公園の池などに浮かんでいるコブハクチョウは、水辺のアクセサリーとして飼われているもので、多くの場合、飛翔に必要な羽根の筋を切断され飛ぶことができないように加工されてしまっている白鳥たちです。彼らは最早野鳥ではありません。不憫なことです。 


チャイコフスキー「白鳥の湖」 

白鳥の湖といえば、知らぬ人は居ないくらい有名な古典バレエの傑作で、魔法の力で白鳥に変えられてしまっていたお姫さまが、王子さまの献身的な愛によって救われると言う童話が、明快な音楽にのって踊り語られる舞踏・音楽劇です。音楽は単純明瞭で、観客は音楽については何も悩む必要も無く、ひたすら舞台上に展開する舞踏の妙技を堪能することができます。音楽は、物語の構成要素ごとに綿密に比重配分がなされていて、挿入ダンスの部分には挿入ダンス向きの音楽を、劇が進行する部分には場面の展開にマッチした音楽をと言うような構成になっています。それが結果的に単純明快な音楽と言う印象につながっているのでしょう。 

バレエ音楽は、実際にその音楽にのって踊りが踊られる場合と、音楽だけが単独に演奏される場合(例えば組曲のような形で)とでは随分違ったものになるように思います。昔LPレコードが出始めた頃、ロジェ・デゾルミエールと言う指揮者がフランス国立管弦楽団を指揮して録音した、白鳥の湖の抜粋曲集と言うLPレコードがありました。それを聴いてからもう四十数年たってしまっているにもかかわらず、私はそのレコードの中で演奏されている、第二幕でオデット姫と王子がデュエットで踊る部分(パ・ダクシオン)のヴァイオリン・ソロの音を忘れることができません。その後さまざまな白鳥の湖を聴いて来ていますが、このデゾルミエール盤のようなソロには巡り合っていません。粘り付くような、音の尾が次の音にかぶさる位に長く引き伸ばされる、そんな感じのヴァイオリンでした。このヴァイオリンが踊りやすいのか踊りにくいのかは分りませんが、バレエの場合、微妙な調整は踊る側が音楽に合わせて行なうのでしょうか、それとも音楽を演奏する側が踊り手に合わせて行なうのでしょうか。一度専門家にうかがってみたい気もします。


サン=サーンス「白鳥」 

サン=サーンスの「白鳥」は、いろいろな動物が登場する「動物の謝肉祭」の中の一曲でチェロで演奏されます。「動物の謝肉祭」は「序奏と獅子王の行進曲」「雌鶏と雄鶏の群れ」「野生のろば」「亀」「象」「カンガルー」「水族館」「長耳の仮装人物」「森のカッコウ」「ピアニスト」「化石」「白鳥」「終結曲」の一四曲からなる組曲ですが、もともとは町の謝肉祭で余興として演奏するために作曲されたものだそうで、サン=サーンス自身が楽譜の出版を認めたのはその中の「白鳥」一曲だけでした。おそらく、この曲が真面目に作曲した唯一の曲だったのでしょう。堅ぶつのサン=サーンスは、冗談半分に他の作曲家の作品をカリカチュアライズしたようなものを、自分の作品として発表したくなかったのに違いありません。ちなみに、第四曲の「亀」は、、オッフェンバックの「天国と地獄」の目の回るようなフレンチカンカンのメロディを、超スローの亀の歩みのテンポにしただけですし、次の「象」は、ベルリオーズのファウストの劫罰の中の空気の精の踊りのメロディを、コントラバスに弾かせているだけです。あの図体の大きい重い象を、軽い軽い空気の精の踊りのメロディに乗せて歩かせると言うパロディです。「白鳥」の前に出てくる「化石」は、自分の「死の舞踏」やキラキラ星等の童謡のメロディに、グレゴリオ聖歌の旋律までが一緒になっていると言う奇想天外な組合せの曲です。この曲に「化石」と言う名前を付けることで、サン=サーンスは、今は新しい自分の曲も、すぐに「化石」同様の古くさい物になってしまうだろうと言おうとしていたのかも知れません。 

この「白鳥」は、「動物の謝肉祭」の全曲が演奏される時以外にも、単独でチェロ独奏のアンコール・ピースとして演奏されることが多い曲です。鳥に関係のあるチェロのアンコール・ピースとしては、他に、カタロニアの民謡をカザルスがチェロ独奏用に編曲した「鳥の歌」が有名です。 

スペインの生んだ偉大な音楽家、と言うよりは偉大なヒューマニスト、パブロ・カザルスは、彼自身の信条から祖国スペインのフランコ独裁政権を受け入れることを拒否し続け、フランコ政権を承認する国では絶対に演奏会を開かないと言う姿勢を貫き通していました。そのカザルスが、一九六一年十一月、フランコ政権承認国であったアメリカの大統領ジョン・F・ケネディーの招きに応じてホワイトハウスで演奏会を開きました。非公開とは言えそれは画期的な出来事でした。ケネディーはこの年の一月に新大統領として就任したばかりでしたが、カザルスは招待受諾を伝える手紙にこう書き記しました。 

「人間性が、今日ほど重大な状況に直面したことは、いまだかってありません。いまや、世界の平和と言うことが、全人類の祈願ともなっています。すべてのひとは、この最終目標達成のために最善をつくすと言うくわだてに参加する義務があります。それゆえに私は、閣下と個人的に親しくお会いできるこの機会を心待ちにしております。私が閣下ならびに、閣下のお友達の皆様方のために演奏するのでありましょう音楽は、アメリカ国民への私の深い感情と、自由世界の指導者としての閣下にたいする私たちすべての信頼の誠意を、かならずや象徴化してくれるものと確信しております。大統領閣下、どうか私の心からの尊敬と敬意をお受け下さい。」(注1)   

ヒューマニズムの指導者としてのケネディーに、ヒューマニストカザルスが信頼と誠意を示したいと希望して実現したこのホワイトハウス・コンサートでは、メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲(作品四九)、クープランのチェロとピアノのための演奏会用小品が演奏され、「鳥の歌」で締めくくられました。この時カザルスと一緒に演奏したのは、ピアノのミエチスラフ・ホルショフスキー、ヴァイオリンのアレクサンダー・シュナイダーでした。それから約十年後の一九七一年、老カザルスは国連で再度「鳥の歌」を演奏しました。演奏に際し、各国の代表を前にカザルスはこう挨拶しています。 

『生まれ故郷の民謡をひかせてもらいます。鳥の歌と言う曲です。カタロニアの小鳥たちは、青い空に飛びあがるとピース、ピースといって鳴くのです。』(注2) 

一九三五年にフランコ独裁政権が誕生して以来、カザルスは一度も祖国の土を踏んでいません。一九七三年十月に九六才で召されるまで、彼は二度と祖国スペインで演奏することはありませんでした。 


シベリウス「トゥオネラの白鳥」 

シベリウスは、祖国フィンランドに古くから伝わる叙事詩「カレワラ」をもとに七曲の交響詩を作曲しました。「トゥオネラの白鳥」はその中の一曲です。今日七曲全部が演奏されることはまれですが、「レミンカイネン組曲(作品 二二)」にまとめられた四曲は聴くことができます。何故か最近は「レミンカイネン組曲」と呼ばず、「レミンカイネンの四つの伝説曲」とか「カレワラによる四つの伝説」あるいは単に「四つの伝説」と呼ばれているようです。トゥオネラとは北欧神話の中の「死者の地」のことで、黄泉の国を流れる黒い川の上を、真白な白鳥が悲しげに歌いながら、ゆっくり流れてゆく様子が描かれています。白鳥のテーマはイングリッシュ・ホルン(コル・アングレ)で演奏されます。イングリッシュ・ホルンの独奏が伴う曲としては、他にドボルザークの九番の交響曲「新世界」がよく知られています。第二楽章でイングリッシュ・ホルンが奏でる「家路」のメロディの美しさは格別です。 

この「新世界」も昔はドヴォルザークの交響曲第五番と呼ばれていましたが、いつの間にか第九番と呼ばれるようになったようです。かの有名な「未完成」も、シューベルトの交響曲第八番ではなく、今では第七番と呼ばれるようになっています。作曲年代順に並べれば「未完成」は一八二二年の作品で、一八二五年に作曲されたとされ、「ザ・グレイト」として知られているハ長調の交響曲が七番と呼ばれ、「未完成」が八番と呼ばれるのは不自然ではあります。しかしこの四楽章を目指して二楽章までしか完成していないと考えられる「未完成交響曲」は、作曲の年から四〇年以上も行方不明となっていて、発見され、初演が行なわれ、出版されたのが一八六五年で、その時にはすでにハ長調の交響曲が第七番として通用していたため、出版にあたってはこの一八二二年作の交響曲に第八番の番号が与えられたのであって、経緯自体には何も不自然な点はありません。そしてそれ以後一世紀以上もの間「未完成」はずっと第八番だったのです。一世紀以上も通用していたポピュラーな番号を、今になって突然変えなければならない必要性があったのでしょうか。それに、現在では一八二一年には既に書き上げられていたと認められる本当の七番目の交響曲の草稿も見つかっていて、その草稿は、FR・バーネット、フェリックス・ワインガルトナー、ブライアン・ニュウボウルド等の手により演奏会用のスコアとして完成されています。これこそが本当の交響曲第七番のはずです。「未完成」を第七番とすると、スコア完成にあたってバーネット、ワインガルトナー、ニュウボウルド等の手が加わった、草稿だけが残されていた第七番はシューベルトの交響曲とは認めないと言うことになってしまいますが、それも乱暴な話ではないでしょうか。この際きちんと整理したいと言うことであるならば、私は   

 交響曲第六番ハ長調      (D番号D589)一八一七ー一八年 作曲   
 交響曲第七番ホ長/短調    (D番号D729)一八二一年 総譜草稿完成  
  交響曲第八番ロ短調「未完成」 (D番号D759)一八二二年 一・二楽章完成
  交響曲第九番ハ長調「グレイト」(D番号D944)一八二五ー二六年 作曲

の順番が最も妥当であるように思います。 

「未完成」交響曲が出てきたついでに、何故、この曲が未完成なのかと言う点に触れてみたいと思います。よく聞かされる、この二楽章だけで最早何も付け加える余地のない程の完璧な交響曲に仕上がっているからと言う説は余りにも強引で戴けません。シューベルト自身が第三楽章スケルツォを書き始めているところから、当然彼は彼の他の交響曲と同様に四楽章の交響曲を作曲するつもりであったことは明らかだからです。また、映画「未完成交響曲」のクレジット、「我が恋の終わらざるが如くこの曲も又終わらざるべし」と言うのも噴飯ものです。私はここで、昭和二三年(一九四八年)一月に出版された比較的古い書物に紹介されている興味深い説を紹介させていただきます。 

『 近衛秀麿氏はこの交響曲について、ハイドン以来今日までの殆ど全部の交響曲、室内楽、奏鳴曲が、四楽章の場合大体二ケ楽章が奇数拍子で、あとの二ケ楽章が偶数拍子である事実を前提にし、この「未完成」で第一楽章が四分の三拍子、第二楽章が八分の三拍子、そして第三楽章が四分の三拍子であるからすべて奇数拍子ばかりとなり、シューベルトはこれに気がついて行き詰ったのではないかと云ふ興味ある推察を下しているのは、一応面白いと思ふ。(「音楽」一九四七年七ー八月号) 』 (注3)  


シベリウス 劇音楽「白鳥姫」(組曲)作品54 

シベリウスは、隣国スウェーデンの小説家であり劇作家でもあったストリンドベルイに心酔し、なんとか親しい関係を築きたいと願っていました。そして、その願いは、一九〇六年に、ストリンドベルイの三度目の妻ハリエット・ボッセの推薦で、ストリンドベルイのおとぎ劇「白鳥姫」のために、シベリウスが付帯音楽を作曲することになって実現するかに見えました。しかし一九〇八年にこの芝居が舞台にかけられた頃には、ストリンドベルイは、シベリウスを彼に紹介してくれた妻ハリエットとも別かれてしまったために、結局シベリウスが望んでいたような関係は築くことができませんでした。そして作曲した音楽だけが残りました。シベリウスは「白鳥姫」のために全部で一四曲を作りましたが、後にこの中から七曲を選んで組曲としました。シベリウスの曲としては比較的知名度は低いかも知れませんが、七曲とも肩のこらない美しい曲です。鳥に関係のある曲は、第一曲目の「孔雀」と第四曲目の「駒鳥が鳴いているよ」の二曲で、「孔雀」は羽根を広げた優雅な孔雀ではなく、木の枝にとまってうるさく鳴いている孔雀で、その声がクラリネットとオーボエで描写されています。また、第四曲の駒鳥はフルートで表現されています。 


ワーグナー「ローエングリン」 

「ローエングリン」は音楽史上の巨星ワーグナーが三十代半ばの若い頃作曲した歌劇ですが、ワーグナーはこの頃から『ドイツが、(外国風の、非ドイツ的な概念)、すなわち、西欧的な民主政治を地獄へ駆逐し、幸福をもたらす唯一の絶対的な国王と自由なる民衆との古代ゲルマン的関係を再建する』ことを切望し、『民衆は、一人が支配し多数が支配しないときにのみ、自由である』(注4)と考えていたのです。このワーグナーの帝国主義的思想と、ワーグナーが好んで使った「外国風」「非ドイツ的」と言う言葉が示唆するドイツ・ナショナリズムの思想、そしてそれが導く先のアンチ・セミティズムのどれもが、後にヒットラーを勇気付けることになります。ヒットラーはワーグナーの音楽を愛し、ワーグナーの思想をナチズムのバックボーンに据えました。ワーグナーとナチズムとの関連はについては稿を改めなければなりませんが、ここでは「ローエングリン」の中で、ワーグナーが「白鳥の騎士」の伝説を借用しつつ、白鳥に、神界・魔界と人とをつなぐ役割を担わせていることに注目したいと思います。 

無実の罪を着せられた少女、エルザ・フォン・ブラバントは、「無実を晴らしてくれるのは、夢に現われた、銀色の甲冑に身を固め、手に剣を持ち、腰に金の角笛を提げた、あの騎士」と、自分が見た夢について語ります。すると、エルザが語った通りの、輝くばかりの騎士ローエングリンが白鳥に曳かれた小舟に乗って登場し、「祈りに応じて、エルザを救うためにやって来たと」告げます。そして、エルザに、自分の生まれた国、名前、種族については決して質問しないことを約束させた上で、彼女に無実の罪をきせたテルラムントと決闘しこれを倒します。エルザと白鳥の騎士は結婚することになりますが、その婚礼の席で、彼女は固く禁じられていた質問を口にしてしまいます。騎士は、「グラールの神より遣わされた、パルシファルの息子ローエングリン」であると自分の素性を明かしますが、素性の暴露は、即ち神通力の喪失を意味し、人間の近づき得ない遠い国の、モンサルヴァートの城に帰らなければならないと言うことでもありました。悲しみにくれるエルザを後に、ローエングリンは去って行かなければなりません。その彼を迎えに来たのも白鳥の小舟でした。しかしこの小舟を曳いて来た白鳥は、実は魔法をかけられ白鳥の姿に変えられていたエルザの弟ゴットフリートで、ローエングリンが白鳥の頸にかけられていた金の鎖を取り外すと、神の威光で白鳥はもとのゴットフリートの姿に戻ります。エルザとゴットフリートは相抱き再会を喜びますが、ローエングリンの乗った小舟は、虚空から舞い降りた神聖の象徴である鳩に曳かれて静かに去って行きます。 


シューベルト 歌曲集「白鳥の歌」 

スワンは死ぬ前に美しい声で歌うと信じられていて、シューベルトの最後の歌曲集には「白鳥の歌」と言うタイトルが付けられています。このタイトルはシューベルト自身がつけたものではなく、彼の死後この歌曲集を出した出版社が、シューベルトの白鳥の歌と言う意味を込めて付けた名前です。従ってこの中には白鳥を対象とする歌は入っておりません。歌曲集は「鳩の使い」と言う鳥の歌でしめくくられています。 

ところで、イギリスの文豪ウイリアム・シェイクスピアは「エーヴォンの白鳥」(The Swan of Avon)とも呼ばれています。これも、白鳥は死ぬ間際に美しい声で歌うと言ういわれから生まれたタイトルです。シェイクスピアは、エーボン川のほとりの町スタッフォード(Statford)に生まれ、ロンドンに居た期間を除く生涯のすべてをそこで過ごしました。本人は劇作家としてよりも、詩人として知られたい、名を残したいと願っていたようで、自ら(The Bard of Avon)を名乗りそれを励みにしていました。Bard とは古い英語の言葉で詩人を意味します。シェイクスピアは多くのソネットを残しましたが、中でも晩年の作品は特に美しいもので、それらをシェイクスピアの白鳥の歌と感じた人達が、Bard を Swan に置き換え The Swan of Avon と呼ぶようになり、いつしかそれがシェイクスピアのタイトルとして定着したのだと言うことです。 

シューベルトにはシェイクスピアの詩に曲を付けた歌曲もあります。「聴け聴けひばり」がそれで、ウィーンのカフェで友人が読んでいた本を何気なく開いたところ、それがシェイクスピアで、「シンベリン」の中にこの詩を見つけると急に目を輝かせ、テーブルの上のメニュー・カードの裏に五線を引いて、そこにさらさらと曲を書いたと言う逸話が残っています。(注5)しかし、同じ資料には「シルヴィア姫とは誰ぞ」も「ヴェローナの二紳士」を題材に、同じ時にメニューを再度裏返してそこに書き記したとも書いてあり(注6)、こうなると話は少々出来過ぎの感がいなめません。だいたい、メニューの裏に「聴け聴けひばり」を書いて、更にそれを裏返せばそれはメニューの表で、そこには料金表があったはずではありませんか。また、この時書かれたのは「聴け聴けひばり」ではなくてバッカスの酒興の歌であったと言う説もあります。(注7)要するに、シューベルトはそれほど自然に、すらすらと、楽想を譜面に移し得た天才であったと言うことなのでしょう。









(注1) 掛下栄一郎訳、CBS/Sony 28DC5108 添付リーフレット(藁科雅美著)
(注2) (読売新聞の記事による)CBS/Sony 28DC5108 添付リーフレット(藁科雅美著)
(注3) 属 啓成著「シューベルトの生涯と芸術」千代田書房 昭和二三年一月三一日発行)原文のまま(
(注4) トーマス・マン「ワーグナーと現代(非政治的人間の考察)」みすず書房
(注5、 6)クラシック音楽鑑賞事典 (シューベルト)講談社学術文庫
(注7) 属 啓成著「シューベルトの生涯と芸術」千代田書房 

第一章 カッコウ

第一章  カッコウ 

カッコウは世界的に広く分布しており、単純でかつ美しい響きをもったその鳴き声は、だれが聞いても「カッコウだ」とすぐ分かるくらいポピュラーなものですので、古くから音楽の中にも広く取り込まれて来ています。例えば、ヘンデルのオルガン協奏曲第一三番ヘ長調「カッコウとナイチンゲール」では、第二楽章でカッコウとナイチンゲールの掛け合いが聞けます。ベートーヴェンの「田園」交響曲でも、他の小鳥たちの声と一緒にカッコウの鳴き声が聞こえます。第五番ハ短調の交響曲ですら、「運命が扉を叩く」音として知られている冒頭の三つのGと一つのEフラットも、Gの音が一つならば立派なかっこうの鳴き声で、事実、ベートーヴェンはかっこうの声から、この冒頭のテーマのヒントを得ているとする説もあるようです。ディーリアスには「春最初のかっこうを聞いて」と言う、春初めてカッコウを耳にした時の喜びをそのまま曲にした作品もあります。マーラーの最初の交響曲「巨人」の中では、カッコウは少し調子のはずれた声で鳴いています。 

カッコウ(Cuculus canorus)はホトトギス科の鳥で、日本にいる仲間としては、ツツドリ(Cuculus saturatus)、ホトトギス(Cuculus poliocephalus)、ジュウイチ(Cuculus fugax)と言うような鳥があげられますが、鳴き声はそれぞれ著しく違います。ホトトギスは古くから言われているように、本当に「特許許可局・特許許可局」と鳴いているように聞こえます。ウグイスは「法・法華経」と鳴いているように聞こえますが、このホトトギスとウグイスの鳴き声の「ききなし」は良くできたものの最右翼と言うことができるでしょう。両手で持てる程度の太さの筒の中にむかって「ポー・ポー」と鳩の声をまねてやると、ツツドリの鳴き声が出来上がります。ジュウイチも鳴き声から付けられた名前ですが、かなり思い込みがはげしくないと「ジューイチ」と鳴いているようには聞こえません。これらの鳥は、九州以北の森林に夏鳥として渡来して来ます。 

カッコウの特長としては、何を置いても「托卵」を上げなければなりません。カッコウはあの優雅な鳴き声からは想像もできない、ずる賢い、独善的な子育てを行います。いや、実際には子育てはしません。自分では子育てはせずに、自分の子供の養育を他の鳥に依託してしまいます。カッコウは、産卵の時期が来るとオオヨシキリ、モズ、アオジ、ノビタキと言うような鳥の巣を見つけ、その巣の主が産卵するのをじっと待っています。巣に卵が産み付けられると、カッコウは、巣の持ち主が気付かぬ内に自分の卵をその巣の中に産み落とし、すでにあった持ち主の生んだ卵を巣の外に捨ててしまいます。それとは知らぬ巣の主は、引き続き何個か自分の卵を生んだ後で抱卵に入ります。温められている卵の内の一個はカッコウの卵です。そして、必ずそのカッコウの卵から最初に雛がかえります。このカッコウの雛がまた生まれながらの狡猾漢で、親鳥がいない間に、まだ巣の中にある本当の巣の持ち主の卵を、自分の身体を上手に使って全部巣の外にはじき落とし、巣を独占してしまいます。そしてほかに雛の生まれて来る卵が無くなってしまった巣の中にはカッコウの雛だけが残り、巣の主、例えばそれがノビタキだとすると、ノビタキがカッコウの育ての親となります。他人の、いや他鳥の子と知ってか知らずか、ノビタキはせっせと餌を運び、巣の中に一羽だけ残されたカッコウの子供を育てます。カッコウは成長すると鳩くらいの大きさになりますので、育てられている間に親のノビタキを追い抜き、巣立ちの前には育ての親の三倍位の大きさになります。そして、ある日突然親を捨てて飛び去ってしまいます。私としては、私の尺度で、育ての親のノビタキの空しさたるやいかばかりなものであろうか、などと思ってしまうのですが、ノビタキにしてみれば、子育てを終えた充実感こそあれ、空しさなどと言うようなものとは全く無関係なのかもしれません。きっとそうに違いありません。彼らは最後まで自分の子供であると信じて育てて来たに違いないのですから。自然界には似たような営みは他にもたくさんあるようです。ファーブルの昆虫記には虫の世界での似たような話が紹介されています。

カッコウは「閑古鳥」とも呼ばれ、俳句の季語になっています。もちろん、北原白秋の「落葉松」にも、
     
     からまつの林の雨は     
     さびしけどいよよしづけし     
     かんこ鳥鳴けるのみなる     
     からまつの濡るるのみなる

と出てくるように、俳句の世界だけのものではありませんが、昨今では、さびれた=閑古鳥が鳴く、がしっかり定着してしまったためか、カッコウ=閑古鳥の等式が成り立ちにくくなってしまっていて、一般にはあまり使われなくなってしまったようです。カッコウの鳴き声が聞ける一杯飲み屋なんかがあっても面白いようにも思うのですが。
 

ベートーヴェン 交響曲第六番 ヘ長調 作品六八番 「田園」 

ベートーヴェンの九曲の交響曲の中で、いわゆる標題音楽の形をとっているのは、この第六番「田園」だけです。ベートーヴェン自身が「田園生活の思い出」とことわりを付している通り、ウィーン郊外、ハイリゲンシュタットの自然の中で過ごした保養の日々の思い出が音で綴られています。完成は一八〇八年、三八才の時で、この頃には、それから十数年後にはベートーヴェンから完全に聴覚を奪ってしまうことになる耳の病気がかなり進行していて、ハイリゲンシュタットでの保養も耳の病気をいやすためのものでした。それだけに、この曲を聴くたびに、第二楽章「小川のほとりの情景」の中に出てくる小鳥たちの歌声が、ベートーヴェンの病む耳にどれほど優しく響いたことであろうかと改めて思うのです。カッコウ(クラリネット)のほかにも、ナイチンゲール(フルート)やウズラ(オーボエ)の声も聞こえてきます。 



マーラー 交響曲第一番ニ長調 「巨人」 

私は、ベートーヴェンの交響曲の中で、標題音楽の形をとっているのは「田園」交響曲だけだと書きました。しかし、マーラーは自分の作る音楽だけではなく、すべての音楽に隠された標題を求めた人です。彼自身の言葉によれば、『ベートーヴェンの交響曲にも標題が内在しており、これら作品を深く知るにつれて、感情と思想が正しく続いていることについての理解力が増進する。』『ベートーヴェンからこのかた、内的標題を持たない現代音楽は存在しない』(注1)と言うことになるようです。つまり「田園」以外の交響曲にも内的標題が付いていると言うのです。マーラーの標題音楽に対する考え方について詳しく知るために、少々長くなりますが、彼がフォシヒェ・ツァイトゥンク紙の批評家マックス・マルシャクにあてた、一八九六年三月二六日付の手紙を引用することにします。 

『 音楽を標題に合わせて創作することが陳腐きわまりないように、音楽作品に標題を付けたいと思うことも、不満足かつ不毛であると私は考える。このことは、作曲家の実際経験が、音楽で表現できるほど具体的な場合に音楽創造の機会を見出し得る、と言う事実によっても、いささかも変わるものではない。・・・  
以上のように述べたあとで、私がハ短調交響曲(交響曲第二番「復活」、著者注)について若干あなたに説明するのは少々具合が悪い、と思うことはご理解いただけるだろう。私は第一楽章を「告別式」と名付けた。さらに事情を言えば、ここで私が埋葬しようとしているのは、第一交響曲の主人公なのである。私はこの主人公の人生を、より高所からの澄んだ鏡に映し出しているのだ。それと同時に、大問題がある。なぜ君は生きたのか。なぜ君は苦しんだのか。人生は恐ろしい冗談にすぎなかったのか。われわれが生き続けなければならないのなら、否、ただ死に続けなければならないのであれば、これらの問題をなんとかして解決しなければならない。こうした呼びかけが人生で鳴り響いたときには、誰でも解答を与えなければならない。私はこの解答を、最終楽章で与えている』(注2)  

マーラー自身も、標題に合わせて音楽を作ることは陳腐きわまりないと言っています。ですから、第二交響曲「復活」の第一楽章は、「葬式」の情景を音で表したと言う意味での標題音楽ではなく、第一交響曲の主人公「巨人」の埋葬を音楽で表現したもの、つまり「巨人の埋葬」がマーラーの言う内的標題と言うことになるのでしょう。これと同じような意味での標題はマーラーのすべての交響曲に含まれています。そして、マーラーがベートーヴェンの交響曲にもこのような内的標題が付いていると考え、その内的標題を曲を解釈する上でのよりどころとしたことに殊さら異を唱えなければならない必要も無いように思います。マーラーは今日でこそ、十九世紀末のウィーンを代表する作曲家と言うことになっていますが、生前は指揮者として広く知られた存在で、もちろんベートーヴェンの交響曲も幾度となく演奏しています。自らの作曲衝動の基盤となっているものと照らし合せながらベートーヴェンの交響曲を解釈してゆくと、マーラーには、ベートーヴェンにこのような音楽を書かさずにはおかなかった衝動の根源のようなものが見えてきたのでしょう。そしてそのようなものを、「内的標題」と表現したのであろうと思えます。 

交響曲第一番「巨人」が現在の形に落ち着くまでには幾多の改訂が繰り返されました。作曲は二四才から二八才にかけて行われましたが、第一稿は一八八八年、第一楽章と第二楽章の間にブルミーネ(「花」)と題された楽章が挟まった五楽章・二部の交響詩として発表され、マーラー自身の指揮でブタペストで初演されました。四年後にハンブルグで演奏された時には、各楽章毎にコメントがつけられ、カッコウばかりでなく、ほかにもたくさんの小鳥の声が聞ける第一楽章には、「限りない春、序奏とアレグロ・コモド、序奏は長い冬の眠りからの自然の目覚めを描写」と言うコメントが付けられていました。更に一八九六年のベルリンでの演奏会では「花」の楽章がはずされ、四つの楽章からなる交響曲第一番として演奏されました。そして三年後の一八九九年になって初めて交響曲第一番ニ長調「巨人」として初版が出版され、ようやく現在普通に聴かれるような形になって定着したのです。第一稿脱稿から初版出版までの間が事実上の推敲期間であったとすれば、実に一〇年もの間演奏を重ねつつ推敲を重ねていたことになります。最初の交響曲を作品としてまとめ上げるのに大変苦労したことが分かります。それもそのはずで、マーラーはその生涯に九曲(事実上は十曲、未完成曲を含めると十一曲)の交響曲を作りましたが、自然の描写、生命賛歌、死の恐怖、神秘と恍惚、心霊的世界への憧れ、苦悩、諦観、等々、マーラーの交響曲に使われているテーマのほとんどすべてがこの第一交響曲の中に包含されていて、若年時の交響曲第一番は、あたかもマーラーの全交響曲のエッセンス集を思わせる作品になっています。 

マーラーの交響曲を通じて、私には、彼がいかに大まじめに人生の意味を解明しようと努力したかがよく分かります。そして、それがいかに不毛の努力であったかと言うこともよく分かります。マーラーにとって、人生とは避けられない死を前提とするつかの間の生でしかなかったようです。だから、積極的に運命に戦いを挑み続けたベートーヴェンと比較すると、マーラーの苦悩は何ともめめしいものに見えてしまいます。私には、マーラーの叫びは、ただ「死にたくない、死にたくない」と泣いているだけに聞こえます。不可避の死を越えて、その先に希望を見い出そうとすれば復活しかあり得ません。マーラーは、交響曲第二番で、第一交響曲で埋葬した主人公「巨人」を早々と「復活」させてしまいます。しかしその後はいくら苦しんでも「復活」を超えるだけの希望は生まれて来ません。それ故でしょうか、後に続く交響曲は、夢や希望よりも諦観や運命の受容が強く滲み出たものになってしまっています。 

それにしても、マーラーの音楽は不思議な音楽です。言ってみれば、八宝菜とか五目うま煮のように、何もかもがごたごたと詰めこまれ煮込まれたような音楽ですが、病みつきになるとちょっとやそっとでは抜け出せません。 


ディーリアス  「春最初のかっこうを聞いて」  

ディーリアスはどこの国の作曲家と言うべきなのでしょうか。生まれ(一八六二年)はイギリスですが、両親はドイツ人で、基礎教育はイギリスで受けたものの、二十歳以降は、ディーリアスにとってイギリスは訪問する国でこそあれ住む国であったことはありません。アメリカ在住中に黒人霊歌の影響を受け、ライプツィヒ音楽院在学中にはワーグナーやチャイコフスキーの音楽に触れ、同時にスカンジナヴィアの音楽家とも親交を持ちました。主たる生活の地はフランスで、パリ東南六〇キロのグレ-ス-ロワン (Grez-sur-Loing) と言う寒村に住み一九三四年にそこで亡くなりました。和声法や対位法を習得する意義を認めず、既成の音楽形式とは全く無縁で、いかなる制約をも受けずに、ひたすら、あたかも音で絵を描くように、彼が詩的と感じ情緒的と感じる世界を彼自身が最高と信じていた「流れる感じの音楽」に描いて行きました。ディーリアスの音楽はディーリアスだけの音楽で、他のどの作曲家にも類似点を見つけることは困難です。演奏や録音で取り上げるのは圧倒的にイギリスのオーケストラやイギリスの指揮者が多いように思われますので、イギリス人は自国の作曲家として認知しているのでしょう。 

「春最初のかっこうを聞いて」は、いかにもイギリスの風景を思わせるような曲ですが、ディーリアス自身はこれはフランスの田園を描写したものであると説明しています。とは言うものの、この曲にはグリーグの「ノールウエイ民謡、作品六六」から「オラの谷間で(In Ola Valley, in Ola Dale)」の旋律も借用されています。しかしディーリアスの巧妙なオーケストレーションによって原曲の面影は見事に消し去られ、彼が好んだ「流れる感じの音楽」に仕立て上げられています。カッコウの曲なので当然のことながら、クラリネットのカッコウがしきりに鳴いています。 

日本ではカッコウの声は夏にならないと聞けないので、もしディーリアスがこの曲を日本で作っていたら、題名は春ではなく「夏最初のかっこうを聞いて」になっていたはずです。 


レスピーギ 組曲「鳥」から 第五曲「カッコウ」 

レスピーギは一八七九年、イタリアのボローニャに生まれ、ボローニャの音楽学校を卒業した後、ロシアでリムスキー=コルサコフについて作曲を学んだ人です。ドイツではマックス・ブルッフに教えを乞うたこともあります。有名なローマの泉、ローマの松、ローマの祭のローマ三部作が示しているように、巧みな風景描写と色彩感豊かなオーケストレーションがレスピーギの身上で、この作曲家の生みだす音楽の世界は、まさに理屈抜きに音楽をエンジョイしたい人のためのものと言えるでしょう。 

組曲「鳥」は、序曲、鳩、雌鶏、夜鳴きうぐいす、カッコウの五曲から成っていますが、それぞれには、もとうたともいえる、イタリア、フランス、イギリスの既存の古いメロディーがあって、それらのメロディーはレスピーギ流のオーケストレーション技法によって華やかな管弦楽曲に仕立て上げられています。カッコウの鳴き声は、ほとんど変更が不可能なほど単純な三度の音程の二音から成り立っていますが、「カッコウ」でのレスピーギの見事なオーケストレーションは、オーケストラをこの素っ気ない二音に釘付けにしたまま曲を展開させて行きます。しかも大団円に近づくとこつ然とそこに序曲の一部が現れて、序曲そのものが既にカッコウの二音の上に成り立っていたことを知ることになります。レスピーギの面目躍如、見事なオーケストレーションです。










(注1)ショーンバーグ「大作曲家の生涯」下巻79ページ、共同通信社
 (注2)ショーンバーグ「大作曲家の生涯」下巻79ー80ページ、共同通信社

2008年7月7日月曜日

はじめに

 はじめに 

 フランスの現代作曲家オリビエ・メシアンの作品の中に「鳥のカタログ」と言うピアノ曲集があります。全曲を通すと2時間半ほどかかる大曲ですが、それぞれに鳥の名前がついた13の独立した曲から成り立っていて、CDならば、どこから聴きはじめても、どこで止めても、何の不都合も生じない実に楽しいピアノ曲集です。この「鳥のカタログ」に限らず、メシアンには他にも鳥が登場する曲が沢山あります。と言うよりは、大部分の作品の中に、何らかの形で、必ずと言って良いくらい鳥が登場します。鳥のさえずりはメシアンにとっては欠くことのできない音楽言語であり、インスピレーションの源泉でした。

 メシアンは、第二次大戦中ドイツ軍に捕虜として囚われていた時に作曲した「世の終りの為の四重奏曲」が、後に脚光をあび有名になった作曲家ですが、この出世作「世の終りの為の四重奏曲」の中でも既に小鳥が活躍しています。 

 「世の終りの為の四重奏曲」は、ピアノ、ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、と言う変わった組合せの四重奏曲で、演奏会毎にこの組合せの四重奏団を特別に編成しなければなりません。アンサンブル・タッシと言うグループは、ピアニストのピーター・ゼルキンが、リチャード・ストルツマン(Cl)、アイダ・カバフィアン(Vn)、フレッド・シェリー(Vc)と一緒に、この四重奏曲を演奏する目的で作った室内アンサンブルですが、武満徹の「カトレーン」もこのタッシのメンバーによって演奏されることを前提に作曲されました。「カトレーン」はこの編成の四重奏団とオーケストラの為の協奏曲風の音楽で、この曲では、独奏部分を四重奏団が受け持つ、4小節単位で景色が変化してゆく、音程的にも4度の音程が大切にされていると言うように、「クァトレ」つまり4と言う数が重要な意味を持っています。これと同じように武満徹には5(ペンタ)と言う数字が重要な意味を持つ作品もあります。実はそれが「鳥は星形の庭に降りる」と言うタイトルの鳥の曲で、題名の星形(ペンタゴナル)が暗示しているように、作曲技法的にもはっきり5と言う数を意識して作られた作品です。 

 音楽の中の鳥から「鳥のカタログ」の作曲者メシアンを連想し、メシアンから「世の終りの為の四重奏曲」を、「世の終りの為の四重奏曲」からタッシを、タッシから武満徹の「カトレーン」を、「カトレーン」から「鳥は星形の庭に降りる」をと連想は果てしなく続きます。私はこんな形で私が愛する小鳥と音楽を対象に、連想ゲームを楽しみつつ、その過程をまとめてみることに致しました。連想のおもむくままに、鳥たちのように自由に翔びまわってみたいと思います。